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 ものづくり・子育て・遊び・・・
 日々の暮らしの中で感じたこと

2007年 1月
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2007. 1. 21. Sun ビーワンサロン体験
2007. 1. 17. Wed 震災から12年。
2007. 1. 10. Wed えべっさん
2007. 1. 07. Sun 雪やこんこ
2007. 1. 04. Thu 身代わりひょうたん
2007. 1. 01. Mon 祝☆2007年


 
 2007. 1. 17. Wed
  震災から12年。
あの日から12年の月日が経ちました。 
 
あの日・・ 
私は今住んでるところから車で10分くらいの神戸市北区の自宅で被災しました。 
 
結婚3年目。まだ子どももいなく、ちょうど主人は京都の舞鶴の方に出張に出ていて、ひとりでわが家にいる状態での被災でした。 
 
ベッドに寝てると突然、下から突き上げるような激しい縦揺れ。 
何がどうなってるのかわからないまま、まるでトランポリンの上に横たわっているかのごとく何度も何度も激しく体を上下に跳ね上げらました。 
なすすべもなく、ただただ「恐怖」の二文字に激しくおびえる私。 
あまりに恐くて、目を開けることすらできませんでした。 
 
「あぁ・・このまま天井が落ちてきて、私・・もう死んでしまうかもしれない・・」 
 
一瞬ですが「死」を意識しました。 
体を動かそうにも、全く動かすことも出来ず・・・。 
そう、情けない話ですがこの時初めて私は「腰が抜ける」ということを体験したのでした。 
 
どうにか起き上がれたのはだいぶしばらくして、誰かがうちの家ドアを「ドンドンドン!!」と強くたたく音と「だいじょうぶかぁっ!!!」の声に気づいてから。 
 
やっと我に返り、なんとかよろよろ起き上がって玄関の戸を開けると、同じ北区に住む主人の会社の人でした。 
すごく安堵感でいっぱいになりました。 
「ひとり」の無力さと同時に、「人」のありがたさというものを改めてしみじみと感じた一瞬でした。 
 
部屋は・・・いろんなものが倒れ、乱れ、割れ、すごい有様になっていました。 
 
電気もガスも水道も、みんな止まっていました。 
 
 
昼に弟がバイクに乗って、うちに無事を確かめにやって来てくれました。 
うちの実家も何とか大丈夫だったことを知ってひとまず安心しました。 
うちの実家は長年住んでた所を半年前に引っ越したばかりで、震災を逃れたのでした。もし引っ越してなければ・・全壊の区域にありました。 
 
夕方には10時間かけて出張先の舞鶴から、やっとやっと主人が戻ってきてくれました。 
玄関を開け顔を見るなり、 
「生きててよかった・・」とぎゅっと抱き合いました。 
 
そしてすぐ車に乗り込み、未だ連絡のつかない長田区の主人の実家や親戚のうちへと向かいました。 
 
いつもなら30分で行ける場所。 
・・が、長田区に近づくにつれ、信じられないような光景を次々に目の当たりにすることとなります。 
信号機は全て止まり、道路にはあちこちで段差や亀裂が入っていて、すでに道が道でなくなっていました。 
そして・・ぐちゃっと崩れ原型をいっさいとどめていない家が軒並み続いていて、 
赤く燃えていている家が何件も目に入りました。 
 
いつも見慣れてるはずの変わり果てた町の姿にただ呆然とするばかり、完全に言葉を失っていました。 
 
どうにかこうにか、やっとの思いでたどり着いた親戚の家も例外ではなく、 
2階建ての家がべちゃんと押しつぶされていて1階部分が跡形もないような状態になってしまっていました。 
 
・・背中が凍りつきました。 
 
「おばちゃーーん!!!」 
「おっちゃーーん!!!」 
 
主人と必死に呼びかけるものの何の返答もありません。 
何度も何度も呼びつづけました。 
 
やっぱり返答はありません。 
 
「また後で来るから!もしここにおるんやったら、それまで絶対がんばっとってや!!!!!」 
 
そう言いながらも、 
 
「お願い!どうか無事避難してくれてますように・・・」と、祈る思いでその場を去り、今度は主人の実家にと向かいました。 
 
その間もあちこちで赤い炎と煙が渦巻いていて、完全に壊滅している町の中を 
放心状態で通りながら、 
あまりにむごい光景に、とても現実とは受け入れられない、受け入れたくない、 
「こんなん、うそや」って、そんな気持ちでいっぱいでした。 
 
主人の実家にたどり着くと・・全壊はまのがれていたものの、すでにかなり傾いていて、次の余震がくれば今にも倒れそうな、きわどい状態になっていました。 
 
主人が幼い頃からの思い出がいっぱい詰まった家。 
その家を涙いっぱいためながら主人は無言で見上げていました。 
 
 
すでに空はもう真っ暗になってました。 
 
 
主人の両親を探しにすぐ近くの小学校へ行きました。 
 
真っ暗な教室にぎっしり、そして廊下にも人がいっぱい避難していました。 
懐中電灯で照らしながら、各教室を回って・・ 
主人の母が体育館にいるのを発見し、お父さんの無事も確認できました。 
 
 
次の日は主人の実家が度重なる余震で、ついに全壊してしまいました。 
ほとんど何も家から取り出すことはできず・・。 
 
けど何より気がかりなのは、未だ行方不明のままの親戚。 
主人と一緒にいろんな場所をまわりました。 
 
おばちゃんにやっと会えたのは、4日後のことでした。 
 
なんと、おばちゃんは3日間、あのぺちゃんこになった瓦礫の中で生き埋めになっていたのです。 
 
わずかな隙間の中で、偶然にも仏様にお供えしていたりんごを手に、3日間がんばっていたと言うことがわかりました。 
 
震災の当日、崩れた家の前でおばちゃん達のことを呼んでいた私達の声も 
瓦礫の中ではっきり聞こえていたらしいのです。 
 
「無事でよかった。本当によかった・・。」 
主人と3人で抱き合って泣きました。 
 
 
・・が、おじさんは 
残念ながら生きては帰ってきませんでした。 
 
 
遺体を安置しているという公民館の地下に行きました。 
 
階段を下りる足が震え、すくむのがわかりました。 
 
そして下りていった先には・・・おびただしい数の遺体が毛布に包まり 
狭い通路の床の上に、両サイドにずらっと並べられていました。 
 
思わず目をそむけそうになりながら、(いや、そむけたらあかんねんや)って自分で強く言い聞かせ、おじさんの遺体を捜しました。 
 
そして・・パジャマ姿のまま冷たくなったおじさんと対面しました。 
 
ついこないだ、「また遊びに来いよ!」と言ってくれたばかりなのに・・ 
 
こんなことで亡くなってしまう人ではないはずなのに・・ 
 
 
 
 +  +  +  +  +  +  +  +  +  +  +  + 
 
 
あれから12年が経ちました。 
 
震災後はもう怒涛のごとくほんとにいろんなことがありました。 
 
当時勤務していた会社もビルが倒壊し、遠い場所へしばらく移転することとなり通うことは不可能だったのですぐに退職届をだしました。 
何より私には、被災した主人の家族や親戚をわが家にて「受け入れる」立場としての大きな役割がありました。仕事をしてる場合ではありません。 
 
「がんばろう。少しでもみんなの力なれるように・・」 
 
当初は片道2時間かけて親戚の家に皆でお風呂に入りに行ったり、トイレの時はお風呂の溜め水をつかって少しずつ流したり、その他もろもろとにかく資源の大切さを身にしみながら毎日生活していっていました。 
 
辛さ悲しみの中にあっても 
「生きていただけでもほんとよかったね。」と励ましあったり。 
 
非日常が日常で、日常が非日常のような日々を毎日過ごしながら、 
最初はそんな感じで、一緒に暮らす家族が増えて喜びさえ感じていた私でした。 
 
・・が、次第にだんだん思いとは裏腹、少しずつ少しづつ空回りばかりが続くようになってきました。お姑さんともぎくしゃくし始めてきました。 
 
今思えばまったく無理もないのですが、 
あの時はみんながみんな、もうほんとに精神的にも、肉体的にも、限界スレスレのところにいて、気持ちの余裕というものは全くなくなってしまっていたのです。 
 
一瞬で長年住んでいた家をなくした主人の両親。 
あの時間同じ家にいながら、一瞬にして旦那さんを失ってしまったおばさん。 
 
普通にいられるほうが、きっと難しいことでしょう。 
 
暗くトゲトゲとした空気が1日中家の中を包むようになってきました。 
私もだんだん自分の器の小ささ、ジレンマや自己嫌悪というマイナスに陥りはじめ、受け入れる側である私の心も病んでいってしまいました。 
 
自分が今まで好きで一生懸命携わってきた仕事に関しても・・服飾デザインや雑貨関係という仕事に対して、こういう人の命が関わる大切な時に、結局何の役にも立たないという現実を直視して、「私は今まで何をやってきたのだろう・・」って、そのことでも悩み落ち込んだりもしました。 
 
唯一の心の支えであるはず主人も、震災復旧のため早朝から深夜まで働きずくめで、帰ってきてもすでにぐったり疲れきっていて、会話することもほとんどできないような状態が続きました。 
 
みんなと暮らしながら、人に囲まれてはいながら、なんなんだろう、このすれ違い・・。ひとつ屋根の下に暮らしながら、次第に心は孤独でいっぱいになっていきました。 
 
こんな時こそ支え合うのが家族なのでは??・・が、現実はそれぞれのいろんなもやもやした感情が、今にも爆発寸前・・きっとそんな状態だったと思います。 
その時の私には、まだそんなみんなの思いをうまく受け止めたり、包み込んであげれるような優しさや包容力にも欠けていました。 
 
でもあの時、自分の気持ちをごまかさずに、とことん悩んだり、主人やお姑さんともおもいっきりぶつかるところはぶつかって、不器用なやり方しかできなかったけど・・自分なりにいろんなことを乗り越えてきたと思います。 
 
あの期間・・自分のこともいっぱい見つめる機会をもてたし、それまでずっとくすぶっていたものがやっとふっきれたっていうか、あの震災の体験のおかげで何か大事な「原点」のようなものをやっと自分なりに掴んだのだと思います。 
 
あの時よく自分に言い聞かせていたのが、 
 
「自分に乗り越えられない壁は、やってこない。」 
「すべては、自分の魂を成長させてくれる『良き事』だと思え。」 
 
たとえ災難であっても、必ず「その人の器の大きさに応じて」災難はやってくるのだと。 
そして一見災難であったとしても、乗り越えた先には必ず大きな『宝物』を発見するのだと。 
 
大きな災難に見舞われた人ほど、自分の器が大きい証拠。 
そして必ずそれを乗り越えられる力があるという証拠。 
乗り越えた先にはより大きな自分、成長した自分に会えるということ。 
だから強く強く自分を信じてーーー 
 
私よりはるかにもっともっと辛い体験をされた人にはそんな言葉をかけたり、心の中でエールを送っていました。 
 
 
そして、 
 
「何があっても後悔しないように、『今』を生きよう。 
自分がやりたいと思ったことは、ちゃんとやっていこう。」 
 
これは本当に強く強く心にとめました。 
 
 
それまでの私は、どちらかというと「今」よりも「もっと先の将来」に焦点を置くタイプだったかもしれません。 
そして「苦労や忍耐は美徳」みたいに思っていたところもあります。 
 
でも『今』の積み重ねが『未来』をつくっていくのですよね。 
 
なら今をもっと楽しもう。 
自分が「これは!」と感じたら躊躇せず、直感に正直になって、やりたいことはどんどんやっていこうーーーー。 
どうせ同じ生きていくのなら、「喜びや楽しみの心」を中心に持って、自分の未来を作っていこう。そして引き寄せていこう。 
 
 
このことは今となっては私の中で「ベース」となってる考え方ですが、 
振り返ればあの震災があったおかげで、その時にいろんな体験をさせてもらったからこそ、自分なりに掴んだ大切な教訓なような気がします。 
自分がこれからの人生生きていく上での大きな軸になったことは確かな事実です。 
 
 
 
神戸・・「神(かみ)の戸」と書きますよね。 
震災でよくこの「神の戸が開いた」といわれますが、 
ひとりひとりの心の中にある 
「神の戸」を、「震災」によってきっと開けてもらえたのでしょうね。 
 
ありがたいことです。 
 
まだまだ震災後12年経ったとはいえ、きびしい現状も、そして癒えない傷もあると思います。 
 
でも全ては自分がどう思い、何を気づき、そしてどう行動していくかで思いも現実もよき方向にと変わっていく事ができるはずだと思います。 
 
たとえ過去の現実は変えられなくとも、唯一自分自身は変わってゆけるのです。 
 
「災い転じて福となる」 
 
今、地球上で起こっているいろんな災いが転じて福となり、 
どうか平和で愛いっぱいの地球に生まれ変わることができますように・・・。 
 
合掌。 
 
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