Title: 35週2日 早期胎盤剥離での死産
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2014年5月。 あまりにも体調が悪く、会社での健康診断の結果も悪かった為、総合病院の内科を受診しました。 その際に「妊娠してませんか?」と尋ねられ「まさか!?」と思いましたがそのまま産婦人科に行くよう指示され、妊娠が発覚しました。
しかし、その時は既に流産しかけており、その子はそのまま胎嚢ごと出てきてしまいました。 優貴と名付けた性別も分からない我が子は、初期流産となりました。
その後、流産後も妊娠症状が治まらず、産婦人科では「胎盤などの一部が残っているのでは?」と言われてたのですが、 念の為、他の病院でも診て貰うと「お腹の中に赤ちゃんがいますよ」とのこと。
混乱だらけのなか、第二子の妊娠生活が始まりました。 悪阻はとても酷かったのですが、女の子と判明した我が子はとても元気でした。
32週に入るまで「とても元気で順調、何も問題ない」と検診ごとに太鼓判を押され、胎動も激しく夜も眠れないくらいでした。 私は高齢妊婦で仕事も激務だった為、不眠と過労でフラフラでは有りましたが、常に元気な我が子に励まされやっとの思いで産休を迎えました
産休第1日目に定期検診が有り、その場で妊娠高血圧症候群との診断が下り、入院することになりました。 1週間の絶対安静と、減塩食を経て自宅療養となりました。 それでも、体内の我が子は元気過ぎる位に元気で。 逆子も自然に治り、相変わらず胎動で眠れない日々でしたが、 我が子に逢える日を待ち望んでいました。
2015年4月7日 日付が変わった頃から何となく眠れなくて、不安でした。 胎動はしっかり感じていたので、寝ている主人は起こさずに一人で悶々としていた矢先。 深夜3時を過ぎる頃には血圧が222/112と、有り得ない数値に驚いて、産婦人科に電話をしました。 深夜にも関わらず主治医が当直でおられ「すぐに病院へ」との指示で、主人にタクシーを呼んで貰い、病院へ向かいました。
病院へ到着した際も自分で歩けたし、それ程、痛みは感じていませんでした。 しかし、例えようも無い不安でいっぱいでした。 直ぐに主治医が診察して下さり、我が子の心音も確認出来たのでホッとしたのですが、 そのまま、胎児の心拍が弱まってしまい、緊急帝王切開手術をすると言われました。 兎に角、我が子さえ無事ならば! と、我が子の誕生だけを祈り続けた数時間後。 「帝王切開から3分程で胎児は取り出せた。でも、既に心臓が止まっていた」と。 我が子の死を告げられました。
私は酷い出血で意識も朦朧としていましたが、主人が「可愛い女の子を産んでくれてありがとう」と私に抱かせてくれました。 小鼻や上唇の形が主人にそっくりなとても可愛い我が子でした。 体重1,888g、身長47cm。 紬(つむぎ)と名付けた娘は本当に小さくて可愛くて。 息が止まっているなんて信じられない程、穏やかな表情をしていました。
私はそのままICUに入り、帝王切開手術の際に出血が多かった為、輸血をされたり、胎盤から逆流した血液のせいで悪くなった腎臓の疾患で10日間入院をし、現在も自宅療養と通院の日々を送っています。
主人が全て手配して紬の葬儀や火葬を行ってくれた際、私も車椅子で斎場まで連れて行って貰い、最後まで娘に寄り添う事が出来ました。 本当に信じられないような出来事で。 未だに何故、紬が居ないのか理解も納得も出来ていません。
それでも、愛しい我が子と一緒に入られた9ヶ月はとても幸せで。 いつもエコーで私だけが見ていた可愛い顔や小さな手足を主人にも見せてあげられて。 二人でいっぱい抱っこして、親子3人で写真を撮って。 私の両親も駆けつけてくれ、皆で見送ってあげられた事。 沢山の想い出や愛情をつむいでくれた紬の存在が今も愛おしくて堪りません。 今は辛くて寂しくて涙涙の毎日だけど。 私と主人の間に産まれて来てくれた紬...心から愛しています。
今年の夏で42歳になる私には、もう、子供は望めないのかも知れません。 それでも、優貴と紬。 二人の子供のお母さんに成る事が出来て...本当に幸せでした。
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