Title: 妊娠30週・臍帯過捻転
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私は2004年7月31日に30週ではじめての子供を死産しました。とてもかわいいい顔した手足の長い女の子でした。。。名前は「もも」と言います。私が桃を毎朝食べるときにいつもお腹の中で動いていたからです。この子の妊娠・出産記録を残していなかったので、思い切って、ポコズママの会に投稿させていただくことにしました。
*妊娠発覚 私と主人は一度決めた結婚を事情があって破談し、別れた状態でした。だけどお互い、忘れることが出来ずに双方の親には内緒で付き合っていました。あるとき、常に順調だったはずの生理が来ない・・・あれ?まさか・・・と思い、毎日を過ごしていました。生理から二日後、少量の出血がありました。だけどすぐ終わってしまいました。3年くらい前、生理が二回来たこともあったので仕事のストレスのせいだと思い込み、会社のあとのジム通いも続けていました。その後、お酒も全く進まなくなり、会社での献血もひっかかってできなかったり・・・生理が遅れて10日以上経っていましたので、主人に言われるまま、判定薬で調べると即、陽性になりました。とてもビックリ・・・混乱状態でした。まず頭に浮かんだこと…「親、どうしよう…」だけど主人は「親を説得するから、産んで一緒に育てていこう」と。
*診察(6週5日) ドキドキしながら主人と病院へ行きました。エコーで初めて対面しました。「赤ちゃんだ!!」とても小さいながらも心臓が一生懸命動いてる…生きているんだ!!私はその時、何があってもこの小さな命を守りたいと思いました。シングルマザーになってでもこの子は私が頑張って育てると。
*義両親 主人と義両親の家に行きました。別れたことになっていたので、私がいたことにはすごく驚かれました。「子供ができた。一緒に育てて行こうと思う」と主人が言いました。義母は怒り心頭で私に対する恨みつらみを言い続けました。私はとにかくお腹の子にごめんね、ごめんねを言い続けていました。「堕ろせ」と言われました。とてもショックで頭に来て、「それじゃ結構です。さようなら」とその場を離れました。その後、いろんな人が間に入ってくれて、何とか義両親と和解することができましたが、そのとき感じたストレス…娘に申し訳なかったと今でも感じています。
*その後 会社は5ヶ月まで通っていました。都心で自宅からも遠いこともあったり、残業も当たり前だったので大事をとって退職しました。それからは心穏やかに過ごしていましたが、義母に対してはやはり距離を置いていました。マタニティビクスをしたり、自治体の母親学級に通ったり、多少のお腹の張りはあるものの出血もなく順調な妊娠生活を送っていたと思います。
*宣告 30週に入ったあたりから、胎動が減っていることに気がつきました。「後期になると大きくなるから胎動は減る」と聞いていたので、きっと赤ちゃん寝てるんだねと思っていました。そして運命の健診の日を迎えました。看護婦さんに「何か今日、一度も動いてないんです」と言いました。するとすぐ私のお腹に心音を聞く機械を当てました。それでも心音がとれない。で、先生にエコーを当ててもらうと「赤ちゃん、亡くなってます」と。それから何が何がなんだかわからず、看護婦さんに「ご家族に連絡して」と言われ、実家の母と主人に連絡しました。二人が来るまで冷静にしていたような気がします。実母と主人が到着し、院長先生の診察がありました。「頭蓋骨の骨が少しズレてるでしょ?たぶん亡くなって間もないと思われます。原因はまだわかりませんが、臍帯過捻転の可能性が…」と。私は「えーうそでしょ??死んじゃったの?」と涙を流しながら叫んでました。入院の日は翌日にすることにして帰宅しました。
*最後の夜 明日になったらお別れなんだと思うと、とにかく朝になってほしくなかった。眠ることもできなかった。ずっとお腹を擦っていたし、泣いていました。まだまだ死と言うものを受け入れることができなかった。もしかしたら?という0の可能性を信じていました。
*入院・分娩 朝、雷と大雨でした。私達が出かける時には驚くくらいに晴れていました。このまま消えてしまいたいという気持ちと戦いながら病院へ到着。すぐにラミナリアを挿入され、病室へ行きました。確かに痛かったけど、心の方が痛かったです。次の日、促進剤を3時間おきに2回挿入。痛みが増してくる…心も痛い、お腹も痛い、このままこの子と死んでしまいたい!!3回目の促進剤を挿入前にトイレで「いきみ」を感じ、急遽、分娩台へ運ばれました。そのあと数回、いきんだだけで我が子はすぐに出てきました。我が子が私から出てくる感触・温かさ、忘れられません。私は早い方だったそうです。「親孝行な娘ちゃんだね」と言われました。
*対面 とにかくパニックでした。この辛い現実を受け止めなくてはいけなくなったからです。ひょっとしたらと言う可能性も爆破されてしまいました。泣かない・動かない娘を見ました。主人に似たかわいい女の子…主人も実家の母・義母も涙を流していました。あまりにも悲しすぎて周りで陣痛に耐えてわめいている妊婦さんのことも気にならなかったのです。原因は臍の緒がものすごい勢いで捻じれてました。「苦しかったんだね。お腹すいていたんだね。なんでママに教えてくれなかったの?」自分を責めました。どうして私は生きてるんだろう…
*退院・その後 娘は私が引きずるからとのことで火葬もすべて業者にお願いされてしまいました。あとになってお骨を引き取ることができるようになりました。病院を退院してから、日々を過ごしていくことがとても辛かったです。日に日に悲しみが増してきました。とても苦しかったです。死のうと思いました。だけど私は「もも」に生かしてもらっているのでは?と思えるようになりました。こうやって苦しいながら生きている中にきっとももが残してくれた生きるためのメッセージや贈り物があるのかなと。これからそのメッセージ・贈り物を私の一生をかけてひとつ・ひとつ探して行こうと思います。
最後に「ももちゃん、どうもありがとう。あなたがお腹にいた8ヶ月間、ママはとても幸せでした。これからはママの心の中にあなたがいつもいてくれます。一緒に頑張って行こうね」いつか天国で娘に会ったときに、恥ずかしくない母親であるために頑張って歩いて行こうと思います。
(掲載日:2004/12/14)
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