Title: 40週3日 子宮内胎児死亡B
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息子を産んでから1ヶ月、私はおっぱいをしぼり続けました。
毎日、きっちり3時間おきに搾乳機をつかってしぼりました。
夜寝ているときも、3時間おきにしぼりました。一度に両胸で150mlのおっぱいを出していました。
そうしないと、息子を産んだこと自体が幻だったんじゃないかと思ってしまうんじゃないかって怖かったからです。
しぼって、おっぱいがでてくるのをみて、わたしは赤ちゃんを産んだのだと実感していました。
実感し、そして、毎回泣いていました。
どこかの赤ちゃんに飲んでほしいとすら思いました。
飲んでもらったら、少しの間でも息子がまだ生きていると錯覚させてもらえるんじゃないかって思っていました。
あかちゃんにおっぱいをあげている友人を見たら、勝手に傷ついていました。
今までちゃんと見れていたことから目をそむけるようになりました。
周りの人の目がとても気になるようになりました。
娘がいるから、娘の日常は守らなくっちゃと必死で外にでていました。搾乳機をもって、娘のおともだちと遊ばせている合間をみて時間になったら搾乳をしました。
そとでは一生懸命に涙をこらえました。
家に帰るとどっと疲れて、泣きました。
娘は「ハナちゃんがママをマモルよ」と搾乳の度にわたしを抱きしめてくれました。
夫は搾乳をするわたしにはなにも言わず、いるときは手伝いをしてくれました。
新生児が飲む以上に搾乳をしていたからか、時間がくるとおっぱいがパンパンにはって、痛くて痛くて、一日中おっぱいのことばかり考えていました。
生きていたら息子が飲んでくれていたであろうおっぱいをシンクに捨てるたびに、息子の死を実感していました。
搾乳をすることで自分自身をいじめ続けていたのかもしれません。
息子が死んだのは、だれのせいでもなく、自分のせいだと思うことが一番楽でした。
だれかのせいにして、その人を一生恨んでいく人生を送ることはとても醜く、哀しいことだと、いやというほどわかっていたからかもしれません。
だから、自分をいじめるのが一番楽でした。
このままずっと自分をいじめ続けていたら、どうなるだろうって少しだけ考え始めたのは搾乳をはじめてから1ヶ月がたった頃でした。
自分を責め続ける妻やママを持った夫や娘はどんな気持ちだろうとはじめて考えることができました。
ハッピーでない妻やママをもたなきゃいけない夫や娘はこれからどうなってしまうんだろうとはじめて考えることができました。
夫や娘には幸せな毎日を送ってほしい。そう思うのなら、自分だって幸せじゃなくっちゃ、幸せだと感じる毎日を取り戻さなきゃダメだって気づきました。
そして、搾乳をやめようと決めました。
息子を産んで1ヶ月たった日にそう決めました。
やめるのなら、わたしの体に負担が残らない形でしっかり断乳していこうと、搾乳時間を徐々にあけ、すこしづつ搾乳する量を減らして行きました。
息子を産んで2ヶ月ほどたったある日、ようやく完全に搾乳をやめることができました。
搾乳機を返却した日、ようやく家族の幸せをもう一度前向きに考えようと決意することができました。
息子が死んでしまったからといって、どんなにかなしいからといって、家に閉じこもることだけはやめようと、それだけは心に決めていました。
娘の2歳の大事な多感な時期に2人で家に引きこもることだけは絶対にやめようと思っていました。
娘にだけは辛い思いをさせたくない、それだけがわたしが生きている意味のような気がしていた日々でした。
娘のおともだちとなるべく会う約束をいれました。公園にも連れて行きました。学校にも、スーパーにも前と変わらずでかけました。
娘が笑顔でいること、1日が終わって娘が笑顔でいたことだけが喜びでした。
わたしのその頃の日々の記憶は娘の成長のこと以外、ほとんど残っていません。
ただ、毎日、おともだちのちいさな赤ちゃんを直視できなくて目をそらしていたことに気づかれなかったか、公園でのふるまいは自然だったか、しっかり笑顔をつくれていたか、学校の合間もスーパーでも、下を向かないように、誰か知っている人に見られても、ちゃんと前のわたしでいられているか、そればかり考えていました。
私が、娘が、かわいそうだと、そんな風に思われることが一番イヤだったから、外にいる間はひたすらに自分の表情を気にかけていました。
そんな風に一生懸命に日常についていこうとしたのに、家にかえるとわたしひとりが日常に置いて行かれているような気持ちになっていました。
わたしの世界と周りの世界が違う時計で動いているような気がしました。
〜40週3日 子宮内胎児死亡Cへ続く
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