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   9週 自然流産   
   一卵性双子 27週で ....   
   13週5日での出血破水 ....   
   13週 流産 臍帯過捻転 ....   
   2度の初期流産   
   腺筋症で妊娠、9週で ....   
   6週での稽留流産   
   6週・化学流産、 7週 ....   
   20週 原因不明   
   14週 子宮内胎児死亡 ....   

Name: ことのは    ..au-net.ne.jp
Date: 2016/09/05(月) 10:42
  返信  引用  編集 
Title: 9週 自然流産    
二人目を妊娠9週で自然流産しました。

9週目に入る前から少量の出血が続き、一人目の時には感じたことのない漠然とした不安感を感じていました。
その後病院へ行くと、やはりお腹の子供は発育が止まってしまっていました。
後日、掻把手術を受ける為の手続きをして帰宅しましたが、その夜、突然全身の寒気と何かが落ちてくる感覚を感じトイレへ向かおうと歩き出したとき、足を伝って大量の血が流れてきました。「あぁ、これでさよならなんだ」と思いました。
そして血の塊を見るたびに守ってあげられなかった自分に対する無力感。

深夜、病院で麻酔もなく、子宮内に残ったものを掻き出し、本当に肉体的にも精神的にも痛くて、苦しくて、辛かった。
同じ時期に授かった友人は無事に出産してるのに。
周りにどんどん妊婦さんが増えてきて、そのたびに感じる喪失感。でも元気なフリをしていた日々。それが逆に自分を疲れさせてしまっていたんです。

先日、私が落ち込んだ顔をしていると息子が突然私の手を握って顔をじっと見つめてきました。
「大丈夫」って言われた気がしました。
息子が背中を押してくれた。
だから長く暗いトンネルを抜け出そうと、そんな気持ちとはさよならして前に進もうと思います。





Name:    ..so-net.ne.jp
Date: 2016/08/20(土) 00:14
  返信  引用  編集 
Title: 一卵性双子 27週で一児死産。 生後1ヶ月での誕生死    
私はもともと生理不順で、薬で生理を起こしつつタイミングで妊娠しました。病院には2年ほど通っており、待望の赤ちゃんでした。初産でした。

7か月まで何も問題がなく、病院からも普通に出産することもあると話が出るくらい順調でした。
しかし、二つあった胎動の片方を感じず病院で見てもらったところ、右ちゃんが亡くなっているといわれ、そのまま緊急入院し、31週で左ちゃんを出産しました。
原因は不明です。
入院中は気が狂いそうでした。
片方の子は亡くなっていて、片方の子は生きている。
お腹にとどめておくことは、亡くなった子にとっては苦しく、生きている子にはありがたいことだと、先生方の説明を私なりに解釈して、そう感じました。

そして、一卵性のため片方が亡くなると、もう片方の子にも影響があるかもしれないこと。でも、もしかしたら何も影響はなく元気な可能性もあること。
しかし、週数や体の大きさからすぐ出すことも難しく、様子を見ることになりました。

亡くなった子を思うと、亡くなった子の体がボロボロになる前に、早く出してあげたい気持ちになりました。
そして、入院中なので元気な赤ちゃんの泣き声や幸せそうなお母さんたちの声が嫌でも聞こえてきました。
私は声を殺して泣きました。
周りのお母さんたちはミルクを3時間おきに絞ったりあげたりしてて、寝不足だろうし、まだこれから出産の人も周りにいて、迷惑をかけたくなかったし、なによりこれから出産のお母さんたちを不安にさせて他の赤ちゃんに何かあったら嫌だったからです。

でも、私は辛かった。苦しかったんです。
どうして、わが子が死んでしまったのに声をあげて泣くこともできないのか、悲しんであげられないのか、母親失格だと思いました。でも、片方の子はまだ生きてる。
悲しんで、泣いてばかりだと片方の子に何か影響がいかないか不安で、落ち着かなくてはと考える自分もいたりして、どうしていいかわからなくなりました。
本当に気が狂いそうでした。
なんでこの子だけこんな目にあわなくちゃいけないの、なんで私だけ、私たちだけと思いました。

その後、31週で2人を出産しました。
片方は産声なく、もう片方は、か細いけど可愛い泣き声でした。
小さいけど2人とも可愛くて。元気に生まれていたらきっと仲の良い姉妹だったんだろうな。

一人はすぐにNICUへ。
一人は身ぎれいにされて、数時間後に私のもとに来てくれました。小さくて、目を閉じてかわいい子でした。かわいいお鼻とお口、閉じた瞼。
私は一生忘れない。まだちょっとあったかかった。
亡くなっていたけど、抱っこできてうれしかったです。
嘘です。
本当は、生きて会いたかったし、声を聴きたかったし、私と夫を、その目に映してほしかった。
ママって呼んで欲しかったし、おっぱいだって吸ってほしかった。七五三、入学式、卒業式、成人式、結婚式。
たくさん一緒に過ごす時間が欲しかった。
当たり前が、普通が遠く、辛く、羨ましく感じました。
亡くなった子とは出産してから1時間も一緒にはいられませんでした。
夏場だったことと、病院の設備の関係で体の損傷が心配されたからです。
一緒にいたかったけど、今までがんばってくれた子をこれ以上頑張らせたくないと思ったので、業者の方にお願いしてより良い状態で保存してもらうことにしました。

三日後に火葬。体はまだ痛かったです。
火葬される扉の前で号泣しました。
なんで、私よりも長生きしてほしかった子を私が見送らなくてはならないのか。これは悪い夢で、私のことではないのではないかと、現実に向き合えませんでした。

出産してから胸は張って痛いし、おっぱいは出るしで辛かったです。もう一人の頑張ってる子にもやはり亡くなった子の影響があり、腎臓がうまく機能できませんでした。
出産から2日くらいにその状態は先生から聞き、絶望的な気持ちでした。心のどこかで、「きっと大丈夫」と思っていた自分がいたからです。
生きている子が飲んでくれると、おっぱいも頑張って出そうとしていた矢先に、そう告げられ、今度は無理におっぱいを出さなくてもいいと看護師さん達からもいわれました。
これはきっと、優しさから来た言葉だったと思います。
亡くなった子のことを思うと出すのもつらいだろうと。
でも、私は生きてる子のために頑張りたかった。
その子の命も危なくて、おっぱいを出しても飲めない状況なのかもしれないけど、私がお母さんとしてできる唯一のことだと思ったからです。
でも、出しても仕方ないのかと思うときもあって、3時間おきに絞るのをやめたら乳腺炎で熱が出て、踏んだり蹴ったりでした。

でも、私が辛いのは良いから、代わりに赤ちゃんを助けてと祈ってました。
1週間程度で私は退院しました。
もう一人の赤ちゃんは生まれてちょうど1か月で亡くなり、家族3人で家に帰ることができました。
約1か月、毎日赤ちゃんに会いに行きました。
少しずつ出なくなる、飲んでもらえるか分からない母乳を凍らせて。凄く濃い1か月でした。
抱っこしたり、綿棒でおっぱいをあげたり、歌を聞かせたり。
ほとんど保育器にいたし、薬をいっぱい打たれていて眠った状態でしたが、幸せでした。
このまま時間が止まればいいのにと本気で思いました。
最後は私の腕の中で息を引き取りました。
穏やかな顔で、寝ているだけなんでしょう?って思いました。

今、家には、使うはずだった赤ちゃん用品と、使うはずのなかった簡単な仏壇があります。私はまだ現実を受け入れたくなくて、お線香をあげられません。毎日声をかけるだけで精一杯です。
生まれてから色々大丈夫なように、ママ友も作ってました。
地域の人にも挨拶してました。
私がやってきたことすべてが、私に牙をむいているように感じます。
いずれママ友にも、地域の人にも言わなくてはいけない。
伝えるだけのことなのに、それが辛くて苦しい。
今まで絞っていたおっぱいも全て凍った状態で帰ってきました。
頑張らなければよかったと後悔もしています。
でも、頑張れたのはあの子たちがいたからで、生まれる前からすごいパワーをもらっていたんだとも感じます。
だから、今が辛いです。
あの子たちと一緒に過ごすはずだった今が辛いです。
どうやって生きて行けばいいのかわかりません。

夫も辛いのお仕事を頑張ってくれています。
私が泣いてばかりではいけないと思うし、心配をかけたくないから、夫の前では泣きたくないんです。
でも、辛いんです。
いつになったらこの辛さがなくなるのか。
なくなってほしいと思う自分もいれば、なくならないでほしいと思う自分もいて、自分でもよくわからないこと言ってるなって思います。
少しずつでいいから、あの子たちのことを、笑顔で思い出せる時間が増えると良いなと思ってます。





Name: ぎんきん    ..au-net.ne.jp
Date: 2016/08/15(月) 13:55
  返信  引用  編集 
Title: 13週5日での出血破水    
結婚6年目、待望の妊娠でした。
12週がすぎ、順調ですと言われてたのでやや安心していました。
ところが、13週5日に出血、破水しました。
その時はまだ心拍も確認できたのですが、羊水がほとんどなく、手の施しようがない。
あかちゃんの足が出てき始めたため、そのまま自然娩出を待つことになりました。

しばらくして診察を受けましたが、頭が残っており、キレイには出してあげれないかもしれないと言われました。
何度かいきむように言われ、実践したのですが、出てくれず、掻き出す形になりました。
そのため、見ない方がいいのとことで、あかちゃんには会えずじまいです。性別もわかりませんでした。
何が何だか分からないまま処置が終わり、薬で眠りました。

一夜明け、色々な事が思い出され、涙がとまりませんでした。
お腹を触ると膨らみもなく、悪阻もありません。
終わったんだ、失ったんだと思い知らされました。

破水の原因は感染だろうとのことでした。
私のせいであかちゃんを危険にし、元気に産んであげられなかったと自責の念でいっぱいです。

これからあかちゃんを火葬をしないといけなくて、予期せぬことだったため、あかちゃんのために買ったものはなく、でも、何かしてあげれることは無いかなとおもいました。
夫と話し合い、2人でお手紙を書きました。
また、ひとりで寂しく無いように私のいつもつけている髪ゴムの飾りを入れてあげようと思います。
悲しいけれど、前を向いて、またあかちゃんが来てくれるように体調を整えていこうと思います。
また、お腹にもどってきてね!





Name: yuu_mama    ..ocn.ne.jp
Date: 2016/08/14(日) 14:53
  返信  引用  編集 
Title: 13週 流産 臍帯過捻転での死産    
皆さんの投稿を読ませていただきながら気持ちを整理しています。
第1子を流産しました。

平成28年8月1日、16週での「助産師外来」で普段通りエコーを診ていただく中、胎児の動きを認めないので「眠っているみたいですね、赤ちゃんは寝たり起きたりを繰り返しているのですよ」と言われたのが始まりです。
その後、心拍を確認するもののなかなか確認できず「わたくし助産師なので・・・検査技師に診ていただきましょうね」と言われました。
心拍を確認するだけなのに、そんな大変なことはないだろうと思いながら、まだその時点では混乱にも至っていませんでした。
でも、検査技師さんでも心拍の確認ができず、何度も確認しようとする様子はすぐに分かりました。
胎児のサイズをみていく中で、<12w3d>との表示に目が行き、ようやくその意味を理解しました。
もっと精密なエコーで医師に確認していただきましたが、やはり心拍は確認できませんでした。

医師からは、「通常一度の診察で確定することはしないこと、今回3人の目で確認し、見解は一致したものの、あってはならぬことではあるが見逃しの可能性もあること。とても重要なことであることから再度日を置いて診させていただくのが良いと思いますが、いかがでしょうか」とのことでした。
5日後に「子宮内胎児死亡」と診断を受け、妊娠16週であったのに対し、胎児は<13w2d>との結果が出ていました。

12週以降ということで前処置として1日、分娩に1日と、少なくとも2泊3日の入院をする旨を聞きました。
胎児のサイズが小さいこともあり、前処置の子宮頸管拡張のためのラミナリアは、計4回、徐々に増やしていきました。
3本までは処置時の痛みと、その直後15分程度痛みをがまんすれば、あとは部屋でリラックスして過ごすことができました。
しかし、最後の挿入で生理痛に似た腰部の鈍痛と子宮痛が起こり、夫に腰を擦ってもらいながら過ごしましたが眠れず、睡眠導入剤をいただいて就寝しました。
腹巻にカイロを貼って腹部や腰部を温めると楽でした。
助産師さんもレンジで温めるタイプの湯たんぽを用意してくださいました。

2日目は分娩のために朝から食事なし、ラミナリアを抜くことで嘘のように痛みがなくなりました。
その後、朝7時に陣痛誘発剤と水分補給のための点滴を受けて部屋で安静にして過ごしました。
1時間経過後には強烈な生理痛のような痛みがあり、分娩室へ。
胎児のサイズから子宮口が4cm程になっていれば分娩できるとのことでした。
分娩台に上がろうとした時に破水し、痛みが嘘のようになくなりました。
分娩台にあがってからは10分程で分娩したようです。
力み方もわからぬまま、助産師さんの誘導に合わせるようにして3回程力みました。正直、どのタイミングで我が子を出産したのか分かりませんでした。

13週程度ですと、胎盤も完成していないこともあり、分娩時に胎盤がきちんと出てこない場合があるそうです。
幸いエコーで確認してもらい、きれいに出たことが分かり、手術はせずに済みました。
先生からは、「赤ちゃんが亡くなってから長い間お腹の中にいたので少し浮腫んでいました。へその緒が一部糸のように細くなっていました。」と説明を受けました。

シルバーのトレーにタオルやガーゼを敷いていただいた上に眠っている我が子をみた時は、なぜか一瞬目にできただけで満足だったんですよね。夫や実母が赤ちゃんを見たいと言ってくれたことは大きな救いでした。

私はできるだけ悔いのないように自分が納得いく形で送り出してあげたいという思いの元、棺や枕・お布団、骨壺、入れてあげたい玩具やお菓子など分娩前に用意を済ませていたので、気持ち的な安心感があったと思います。
火葬の手配も自分で行いました。小さい小さい子なのでお骨が残るのかがとても気がかりでした。今は火葬が自動運転で火力を弱くする等はできないことを告げられ不安でしたが、分娩から3日後の15時〜火葬の予約を取りました。

クリニックでの納棺では、助産師さんが「良かったね、かわいいお布団だね」などと9cmの小さな我が子を、ひとりの人として丁寧に接してくださいました。その優しさが嬉しいのと、悲しさで涙が止まりませんでしたが、本当にありがたかったです。

実家に帰ってから火葬までの間はドライアイスを防水シートで包み棺の底に入れ、その上にお布団を敷いて、ガーゼに包んであげて寝せてあげていました。真夏の時期ですが、部屋の冷房とドライアイス、時々乾いてきてしまったらお水をふくませてあげることで、十分3日間過ごすことができました。
抱っこをしたり写真を撮ったり。
小さくてかわいそうかなと思いましたが手形も取りました。
臍の緒を希望したところ、いただくことができました。
なかなか写真を撮ることは悲しくて苦しくて抵抗がある方もいらっしゃるかもしれませんが、残しておけるものをできるだけ沢山残すことは、その後の気持ちの安定に繋がるような気がします。

無事に火葬が済み、ほんの僅かですがお骨を残してくれました。しっかりと鎖骨1本がそのままの形で残りました。
私達夫婦は葬儀をせず、家族のみで火葬という形を取りました。今はお花、お水、お菓子をお供えして、お線香を焚いて彼を想っています。気持ちが落ち着いたらお墓に埋葬する予定です。

今回の流産を経て私が感じたことは、例えお腹の中で我が子が亡くなっているとわかっていても母親になれたこと、それはかけがえのない事実であると。周囲の人は「次があるから大丈夫」等と励まそうとして言葉を掛けることがあるかもしれません。それは私にとって、次があれば今回の流産がなかったことにされるようでとても苦しいのですが、忘れなくていいんですよね。私はむしろ「次に進みたいのに進めないのではなく、進むのが怖い」のです。また同じ経験をするのかもしれないという気持ちは払拭できませんし、初産婦であった私は生を受ければ当然のように我が子が育つと思って過ごしていたため、もしも…もしも次に子を授かることができたとしても、今回のような気持ちで過ごすことはまずできないと感じています。「心配」ではなく「恐怖」なのです。

私と夫は仲の良い方だと思っていますが、それでも物事の捉え方には温度差があります。それによって悲しむこともあります。そんな時は夫にポコズママの会のサイトを見てもらったり、逆に夫の立場で物事を考えることも私自身必要かなと思っています。

最後に、我が子を亡くした事実は何も変わりなくとも、やはり周囲の方の寄り添う気持ち・共感が必要ですよね。子を失った事実だけでも苦しいのに、周囲に理解してもらえないことは本当に辛いことです。私もまだ日が浅く涙が尽きないのですが、こうして自分の気持ちを発信することで整理することもひとつの手段であると思っています。





Name: なお    ..ocn.ne.jp
Date: 2016/08/11(木) 16:48
  返信  引用  編集 
Title: 2度の初期流産    
不妊クリニックに通い始めて8ヶ月で待望の妊娠。
でもなかなか胎嚢が確認できなくて、やっと確認できたと思ってもすごく小さくて。
心拍を確認することなく、自宅にて自然流産してしまいました。

泣いて泣いて、しばらくはふさぎこんでいたけど、それでもやっぱり子供がほしくて。
そしたら、まさか、流産後1回の生理を見ただけで再び自然妊娠することができたのです。
きっと急いで帰ってきてくれたんだと思いました。

前回はなかった食べつわりに、胎嚢は平均より小さかったけど、医者に前回は言われなかった「1週間後には心拍確認できると思うよ」という言葉に、今回こそは大丈夫という自信を持って臨んだ6週5日の検診。
エコーにはぽっかりと黒い袋しか見えず、卵黄嚢すら見えず、またも心拍は確認できませんでした。
流産を待つのは精神的につらいけれど、医者の勧めにより自然に流れるのを今待っているところです。

検診の前日、嫌な夢を見たんです。
病院で、今まで見えていた胎嚢が消えてると医者に言われる夢。
夢で人が消えるというのは、その人とのつながりが消えるということを暗示するそうです。
正夢になってしまいました。

どうして私ばかり2回も続けてって思いました。
姉はすんなり希望通りに2人産んでいるのに。
流産が確定した日は、もう生きたくない、私も一緒に消えたい、死んでしまいたいと主人に泣いて訴えました。

本当に誰もかれも皆憎くて、あっけらかんと明るく流産を告げる医者にも、他の妊婦さんにも憎しみを持ってしまいました。
流産をした人にさえ、他に元気な子供がいるからいいじゃないか、私には一人もいない、と最低なことを思ってしまいました。
流産した悲しみは子供がいようといまいと一緒のはずなのに、どうしてもそう思ってしまうのです。

心拍すら確認できていないくせに、心拍確認後に流産した人のほうが、後期流産のほうが、死産の方がきっともっとつらいのに。
本当に最低だとわかっているのに、まだどうしてもその思いを消すことができません。
すみません、これを読んで不快に思う方がたくさんいると思います。
でもあともう少しだけ、自然流産するまではこう思ってしまうことを許して下さい。
本当にすみません。

私には子供を産むことができるんだろうか?
心拍って本当に確認できるの?
初期の流産は受精卵の問題だと言われているけど、そんなに2度も連続しておきてしまうほど私は運が悪いの?
運ってどうしたらよくなる?
最初の子は私にも妊娠できるんだと教えにきてくれたのかもしれないけど、じゃあ次の子はなぜすぐ流産してしまうのに、つらいだけなのに、きてくれたのか…。

なんだか真っ暗な迷路の中にいる気がします。
でも自分がどうしたいのかわからない中、ひとつだけ明かりがあります。

実は検診前に見た夢には続きがありました。
医者は「今まで見えていた胎嚢は消えちゃったね、でもその代わり2つ胎嚢が発生してるよ」と言ったんです。

これが今の私の唯一の希望です。

きっとまた妊娠できるという暗示なのだと、その2つの胎嚢は出産できると信じたい。





Name: METAKO    ..zaq.ne.jp
Date: 2016/08/08(月) 10:00
  返信  引用  編集 
Title: 腺筋症で妊娠、9週で自然流産    
5年前に腺筋症と診断され、妊娠は難しいと言われていましたし、41歳という年齢。
完全に諦めていたところ妊娠。
検査薬で陽性、エコーで胎嚢が確認ができたときには「奇跡の赤ちゃんだ!」と主人と二人、天にも昇る気持ちでした。
それが妊娠5週のことでした。

12日後に再度エコー。
7週目だから胎芽が見えて心拍確認もできるやろか、母子手帳ってどうやってもらうんだろと胸を膨らませて内診を受けたら、
医師から「4週6日の胎嚢の大きさ。次回この辺に赤ちゃんが見えたらいいですね」とのこと。

7週1日のつもりで来たのに。
「それってどうなんですか?成長遅くないですか?」と聞いても「普通です。2週間後また診ましょう」と言われ、ほんまかいな?と思いました。写真を見比べても前回との大きさの変化があまりないし。

数日前に見た夢を思い出しました。
夢の中ではおじいちゃんと呼んでいましたが、現実には面識のない青い服を着た男性が天国に行くというのので数人でお見送り。
ハグしながら「さよなら」という夢。

赤ちゃんは男の子で、その時還っていってしまったんじゃないか。

ひどい貧血だったため妊娠が分かってから毎日通院で仕事を休んでいたんですが、数値がよくなり2週間後まで来なくていいと言われたので、家にいても暗くなっていってしまうし、職場復帰しました。

1週間後お腹の張りが強かったし、たまたま休みがあったので、受診。
エコーを確認したところ「5週4日の胎嚢の大きさ。胎芽はまだ見えない。」とのこと。
8週1日の計算で基礎体温もつけており、排卵日にずれは考えられないことを言ってみましたが「でも1週間分大きくなってるから2週間後また診てみましょう」とのこと。

確かに胎嚢は成長してるし大丈夫と思おうと自分に言い聞かせました。

9週3日夕方から少量の茶色の出血。
翌朝、鮮血に変わったため、主治医はいない日でしたが、病院へ。「胎嚢の大きさは4週6日。胎芽見えず。週数的にこの大きさだと今回は残念です。自然に胎嚢などが出てくるので出たらナプキンごと袋に入れて持ってきてください」とのこと。

その晩、生理痛のような痛みがあり、異臭のする膜のようなものとレバー状の塊が少し出て「始まってしまった」と思いました。
どんどん痛みは増し、どばっと塊が出ました。
まだまだ痛みは増す一方で、意識が朦朧としてきて歩き回ったりしゃがんだりいろんな体勢をとりながら耐えました。
「腺筋症だし普段の生理もひどいだろうけど、それ以上の痛みが来るから鎮痛剤飲んでいいから」と医師には言われていたので、主人も「何で鎮痛剤飲まないの?」と不思議そう。
赤ちゃんはもう亡くなってるのに、それか、はじめから赤ちゃん成長できてないのに馬鹿だと言われてもこの痛みから逃げたくないと思いました。

夜更けに、またどっと塊が出ました。
すると今までの痛みが嘘のように引き、ああ、出てしまったんだと思いました。

その後は生理2日目ほどの出血が続き、また少しだけ塊がでました。
明け方には生理3日目くらいの出血量に減ったので、病院に行き、当直の医師に診てもらいました。

土曜の早朝だったので主人に車で連れて行ってもらったのですが、車に乗るまで我が子の入った袋を胸に抱えて泣いている主人を見て、また出産を終えたママに会いに来てる家族と待合室が一緒になって、また、泣いている主人を見て、たまらない気持ちになりました。

その後、子宮収縮剤を飲むとショック状態になってしまい、救急車で病院に逆戻りしたり、
もう3日目になるのに相変わらずの出血量と夜寝られないくらいの腹痛が続いているんですが、ここで皆さんの体験を読ませていただき、励まされたので、なるべく早く書き込みたいと思い、投稿させていただきました。

今思えば、抱えきれないほどの仕事を抱えて心身ともにいっぱいいっぱい。
ヘモグロビンの値もかなり悪くなってるのに、病院にはいけない状態だったので、「一旦仕事手放して、貧血の治療して」と言いに来てくれたのかもしれません。だから貧血が落ち着いたら帰って行ってしまったのかなと。

今はまだしんどいし、今回いろんな医師に診てもらいましたが、みんなが「うわっ」というくらいの腺筋症。
それに加えて来週42歳になってしまうので、もう次は考えられないけど、1回だけでも短期間だけでも母にしてくれたのは感謝です。

妊娠から無事出産までたどり着けるのは奇跡。
職場に一人いる妊婦さんの後輩を大切にして、私自身は体を大切に、今まで以上に夫婦仲良くやっていこうと思いました。





Name: ひまわり    ..spmode.ne.jp
Date: 2016/08/04(木) 17:24
  返信  引用  編集 
Title: 6週での稽留流産    
学生時代から生理不順だった私。
当時はあまり深く気にしていなかったけど、大人になってくるにつれ、子供がほしいと思う気持ちが強くなり、婦人科に通い始めました。
排卵がおきていないことによる生理不順だと言われました。

今の彼と出会って、本格的な不妊治療を始めました。
排卵誘発剤を飲んで医師のタイミング指導を受けること2周期。
子供ってそんなに簡単にできないんだなぁと思った矢先、胸の張りが強く、生理も来てなかったため検査薬を試したみたところ陽性。
わたしも彼も嬉しくて、すぐ一緒に病院に行きました。
そのときは胎嚢らしきものは確認とれたけど、まだはっきりわからないと言われました。

後日、改めて受診すると、卵黄嚢も見えるけど、胎嚢の形がいびつだと言われ、わたしにはどうゆうことか全く意味がわかりませんでした。
もしかしたら流産かもしれないと言われたけど、その言葉を信じたくないという私がいました。

しかし、先生も、まだ見えてないだけかもしれないから翌週また受診してください、というのが何週か続きました。
来る日も来る日も胎芽は見えず、いびつな胎嚢しか見えませんでした。

陽性反応が出てから1ヶ月半がたったころ、残念ながら今回は稽留流産でしょう、と先生に言われました。
自分のなかでは覚悟してたつもりでしたが予想以上にショックで、毎日毎日泣いてました。
夢だったらいいのにという気持ちも虚しく、手術の日程も決まり
私の気持ちがついていかないまま、日々過ぎて行きました。

手術の何日か前にトイレに行くと、血の塊みたいものがでてしまい
病院に電話すると、明日すぐ病院へ来てくださいと。
やはり予想通り胎嚢が流れてしまったのですがまだ組織が残ってるので、手術日を早めると言われました。

手術自体はすぐ終わるものでしたが麻酔が切れてるのか、切れてないのかよくわからないが涙が溢れた。
不妊治療の末、やっと授かった我が子。
七夕の日にお空に帰っちゃったんだなと思うと、辛くて辛くて、涙が出ない日はありませんでした。

あれから1ヶ月経った今でも無意識のうちに涙がでます。
こんな私だから赤ちゃんは空に帰っちゃったのかな?
また私のところに帰ってきてくれると信じてます。
その時にはきっと私強くなってるから!!
だから、また絶対私のところに帰ってきてね。
1ヶ月間だけど、ママにしてくれてありがとう!
次また会えるのを楽しみにしてます。





Name: まんまる    ..mesh.ad.jp
Date: 2016/08/02(火) 22:12
  返信  引用  編集 
Title: 6週・化学流産、 7週・稽留流産    
1人目の子が1歳半になる頃、そろそろ二人目を意識し始めて3ヶ月ほどで妊娠反応がありました。
受診は6週と決めて過ごしていましたが、5週頃、少量の鮮血の出血がありました。
痛みはないし、1人目のときも出血があったので気にしていませんでした。
翌日には出血が止まったので安心したものの、再び鮮血があり、量が増え、また減って…と繰り返していましたが、やはり腹痛はなく。
予定通り6週で受診しましたが、受診する朝にはもう大量の出血に代わっており、これはダメだなと思いながら受診しました。
胎嚢がみえなかった為、子宮外妊娠の疑いで入院になりましたが、結局見当たらず、胎嚢が出た形跡もないため、化学流産でしょうとのことでした。
全く痛みなく、全て綺麗になりました。
残念ではありましたが、胎嚢さえ見ていないので悲しくもなく、ただの生理で入院しているような感じでした。

3週間ほどして生理がきて、そのすぐ後の排卵で再び妊娠。
5週5日で胎嚢と卵黄のうが見えましたが成長が遅いなと感じました。1人目のときは心拍まで確認できていましたから。

6週4日で3ミリの胎芽、かすかな心拍を確認しましたが、私の中ではこの時点で覚悟が決まっていました。
3ミリもあれば立派な心拍が確認できるはずです。
7週3日、胎芽は5ミリ、心拍はなく稽留流産となりました。
すんなりと受け入れられ、悲しい気持ちよりも上の子が元気に産まれてきたのは奇跡の連続なんだと改めて思い、上の子がより一層愛しく、可愛く思えました。
ですので、無駄だったとは思いません。
あさって手術をします。

数ヵ月お休みして、今度こそ元気に産んであげようと思います。





Name: さつき    ..openmobile.ne.jp
Date: 2016/07/23(土) 03:17
  返信  引用  編集 
Title: 20週 原因不明    
今年の3月に第3子が20週でお空に帰ってしまいました。

悲しい診断を受けた日からお腹のハリがなくなり、下に垂れ下がっていくのがわかった。
身体が赤ちゃんの羊水を作ったりするのを諦めたんだと実感した。

2人産んでいるので陣痛の痛みは知っていたが、産声を上げない亡くなった赤ちゃんを出産する痛みは初めて知った。
普通の出産より痛みはまだましなのに、耐えるのが辛く、破水するまで、なんで赤ちゃんを亡くしてさらにこんな痛みまで耐えなきゃいけないんだ!って誰も陣痛室にいないときに泣き言を言った。

赤ちゃんを出産しても、やっぱり分娩室はしーんとしていた。
きれいにしてもらった赤ちゃんを連れてきてもらって顔をよく見ると、横顔は上の二人そっくりでこんなに小さいのに可愛い指があり、爪もちゃんとある!と悲しいやら、何やら。

火葬までの日々は上の二人の育児をしつつ、身体を休ませる暇もなく、旦那は暇があれば赤ちゃんの棺を開けて、一人でずっと赤ちゃんを眺めていた。
旦那も悲しいんだなと実感した。

火葬当日、子供たちも一緒にたくさんの花を入れてあげた。
夏が予定日だったので夏服と我が家の匂いが染み付いたワンワンのぬいぐるみも寂しくないようにいれた。

火葬場に行き、一番上の子が火のスイッチを入れた。
終わるまで外に出て空に上がっていく煙をただ見ていた。
骨が残るか心配だったが、たくさん骨を残してくれて嬉しかった。

あの日からまだ3ヶ月。
悲しみの大きさは癒えず、ただ身体と精神がその悲しみに慣れただけで泣くことは減ったが、心の一部をどこかに忘れてきてしまった感じが治らない。
旦那には仕事があるし、両親にも迷惑かけられないからずっとメソメソしてられない。
でも心のなかで何か黒い物が渦巻く感じが抜けない。

神様まで信じられなくなった。
お参りに行っても何で神様なんかいないのに手合わせても意味ないじゃんって思ってる自分がいてどうしてしまったんだろう

どうして何も知らない真っ白な大倖が逝かなくてはならなくて、ママではなかったんだろう。
ママも一緒に逝きたかったよ。
どうしてママのところにきてくれたんだろう?

順調にいけばもうすぐ予定日だった。
近づくにつれ、また悲しみが日々大きくなってきた。

忘れたいほど悲しいことなのに大倖を忘れることなんて絶対に出来ない。

まだいろいろと抜け出せない。





Name: いーゆー    ..au-net.ne.jp
Date: 2016/06/16(木) 22:39
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Title: 14週 子宮内胎児死亡    
今年の4月、14週2日の妊婦健診で赤ちゃんの心拍が止まっていると言われました。
6週から12週まで酷い出血を繰り返していたので、自然と覚悟が出来ていたのか、そのときは冷静で、紹介状を貰って総合病院に向かいました。

でも、出血が続く中で、毎回「赤ちゃん元気ですよ」と言われていたので、総合病院でみてもらったら、もしかして心臓が動いてると言われるんじゃないかと、期待する自分がいました。

総合病院で診察を受けた時、初めて言葉に詰まってしまい、現実を見た気がします。
4月25日に入院。
ラミナリアでの処置を受けて、26日に促進剤で分娩。
ラミナリアも胎盤を掻き出すのも味わったことのない痛みで、産声のないこんな悲しみの中で、こんな痛みを味わうのはもう嫌だと思いました。
でも、これが私が我が子に出来る最後の仕事でした。

とても小さな我が子は夫にそっくりな男の子でした。
看護師さんの作ってくれた小さな箱のベッドに横たわる息子は、眠っているだけじゃないの?と思うような安らかな顔をしていました。
次の日に退院して、その次の日に葬儀。
手紙や用意していたぬいぐるみ、靴下などを入れて葬儀社の方が用意してくれたお花も。
小さな我が子は、小さな細い骨を二本残してくれました。

今はまだ誰にも会いたくありません。
周囲の言葉に傷ついてしまうのです。
元気出さなきゃ。空元気じゃダメ!と言われたり、仕方のないことなんだからって言われたり。
私だって元気になりたい。暗い顔を我が子に見せたくない。
私達の元に来てくれて、たくさんのことを教えてくれたこの子の前で明るくしたいのに。
出来ない。

来月の納骨の時には、今より元気になりたいです。
私達の赤ちゃん、大好き。
私を母親に選んでくれてありがとう。






 
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