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Name: エンジェル ..dion.ne.jp
Date: 2014/05/11(日) 23:42
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Title: 7週 稽留流産
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いつもと違う体調の変化を感じ、妊娠検査薬を使用して第2子の妊娠が分かりました。 第1子のときは、なかなか恵まれず、やっとできた子でした。 また、2学年差で子供が欲しいと思っていたので、とても嬉しかったです。
病院を予約し、初診を受けた時には最終生理からだと8週のはずでしたが、胎嚢のみが確認でき、だいたい5週くらいと言われました。 元々生理も不順で、周期が長めだった為、あまり気にしていませんでした。
しかし、病院の先生からは胎嚢のみで育たないこともあると聞いて少し不安もありました。 2週間後に予約して帰りましたが、気になってしまい、何日か後に1週間早くに診てもらうように変更しました。
初診から1週間後。胎嚢の中に小さな丸が見えました。 とても安心しました。少し小さいと言われ、1週間後にまた診察になりました。 帰宅してからピンクのおりものがありました。 ネットなどで調べたら、妊娠初期にはよくあるとありました。 なので、様子をみていました。
検診に行けば母子手帳がもらえるかなと楽しみに行きました。 赤ちゃんは成長していて、心拍も確認できました。 ただ、心拍が通常よりゆっくりだと言われました。 このまま止まるか、持ち直すか分からないと言われ、母子手帳は来週まで待つ事になりました。
家族や友人などでも、そんな事言われた人など聞いた事がなかったので、ネットで調べました。 そのまま流産する人もいれば、持ち直した人もいるようでした。 親族に流産した人がいなかったので、大丈夫だと信じていました。正確には信じたかった。
お腹にも、頑張れと話しかけました。 元気に産まれて会おうと。 パパもママもお姉ちゃんも待ってると話しかけました。
診察後からピンクのおりものが、またありました。 再度様子をみてましたが、茶色になり、量が増えてきました。 心配になり、病院に連絡して、その日のうちに診察を受けました。 赤ちゃんの心拍はなくなっていました。 大きさも前と変わらない。 胎嚢の形も少しゆがんでいるので、剥がれ始めてると。そこから出血してるのではないかといわれました。 出血が増えてきたので、ダメかな…と思っていましたが、ショックでした。 手術した方がいいと言われ、日程の確認の為に主人に電話しました。 赤ちゃんダメだったと、声に出したら物凄く悲しくなりました。
流産はよくあることで、初期は受精卵側の問題だと聞き、仕方ないんだなぁ…と思いましたが、実際声に出したら、涙がでました。 しかし、病院だったので我慢して、手術の説明や予約をしてかえりました。
家で最後にもらったエコー写真を見たら、悲しさがこみ上げてきました。ゆっくりでも心拍があったのに、止まっちゃったと思うと涙があふれました。 1人目は何の問題もなく産まれた為、2人目もそうだろうと安心し、上の子の世話もあったりして、お腹の子への配慮がたりなかったかなと反省しました。あれがダメだったかなと色々後悔しました。
予約した手術日まで時間があいていたので、赤ちゃんは自然に出てきてくれました。 ネットなどでは、お腹の激痛や大量出血などがあるとありましたが、私はたいした事もなく、自然に産む事ができました。親孝行な子だと主人と話しました。
手術をしなくて済んだので、現在は経過観察中です。 ただ、出てきた子を見た時には、動揺してしまいトイレから取る勇気もなく、流してしまいました。 今でもそれを後悔しています。申し訳ない事をしたと。 でも、友達からトイレに行くたびに思い出せば供養になると言われ、救われました。 神社にお参りしました。また会える事ををお願いしました。
心の整理ができたと思っていたのですが、今になると、何で私の子が?と思います。お腹にいないんだと思うと虚しくなります。 妊婦の友達が羨ましくなります。 赤ちゃんがいた事を残したいと思い、書かせてもらいました。 少しスッキリしました。ありがとうございました。
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Name: まき ..panda-world.ne.jp
Date: 2014/05/04(日) 01:06
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Title: 28週 臍帯過捻転による死産
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死産を経験し、もうすぐ1ヶ月が経とうとしています。 検診の2〜3日前から胎動がほぼなかったのですが、検診では心拍も聞き取ることができて、先生にも「順調」と言われました。
その後もやっぱり胎動をあまり感じられなかったので、1週間後に電話して診てもらうと、すでに心拍は止まっていました。 あの時、もっと先生に胎動が少ないことを相談していたら・・・と、悔やみました。 先生も異変には気づかなかったとのこと。 突然の事で頭が真っ白になり、すぐには涙も出ませんでした。
その後、陣痛を起こして出産しました。 今はまだ体調に波がありますが、短い一生になると分かって私のお腹に来てくれたベビの勇気と、人に愛される温かさを教えてくれ、安産にしてくれた優しさを感じ、ベビには感謝しいっぱい褒めたいと思います。
雨が降ったら虹が出ます。 私達はたくさん涙を流しました。 きっと未来は虹色です。一緒に頑張りましょう。
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Name: あぶちゃん ..au-net.ne.jp
Date: 2014/04/30(水) 23:52
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Title: 16週 稽留流産
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前回の検診までは順調でした。 安定期に入って安心できる頃だなと思っていた16週の診察で、「子宮内胎児死亡」と言われました。 心臓の音が聞こえず、エコーも動かない。 「残念ですが・・・」という先生の言葉に「そうですね」というのが精一杯でした。
先生から「できるだけ早く子宮の中の異物を出した方がいいので、入院して子宮内除去術を行いましょう」と勧められました。 赤ちゃんが急に異物扱いになってしまったことがとても悲しかったです。 でも、助産師さんが「赤ちゃんとして産んであげて下さいね」と言ってくださりとても気持ちが楽になりました。
産まれた赤ちゃんは36gの男の子でした。 手のひらにすっぽり収まるほどでしたが、目も口も手も足も爪もあって、かわいい赤ちゃんでした。 流産は頭でわかっていて、仕方のないことだとはわかっていても、気持ちはついていかず、精神的に不安定な私に、夫は寄り添い支えてくれました。 泣きたいだけ泣かせてくれました。 友達は一緒に泣いてくれて、あぁ本当に赤ちゃんがここに居たんだなって、存在を認めてくれる人がいることを嬉しく感じていました。 ただ、大好きだった祖母には、昔の人だからなのか、亡くなった赤ちゃんのはなしをすると「いつまでも思っていないで早く忘れなさい。次の子に良くないから」と言われ、悲しい思いをしました。 私達夫婦の中では引きずるわけじゃなく、赤ちゃんの事は大切な家族として絶対に忘れない、ただし人にはその考えを強要しないことにしました。
あれから2年。仕事が忙しい夫ですが、命日は休みをとってくれ、お墓参りに行っています。 亡くなった事は残念ですが、夫婦として、親としてとても強くなれたとおもい、私たちのところにきてくれた赤ちゃんに感謝しています。
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Name: オル まほ ..dion.ne.jp
Date: 2014/04/19(土) 10:00
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Title: 24週 死産 、 8週 稽留流産
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24週での死産の後、暗黒の1年を過ごし、 天使になった彼に色んなことを気づかせてもらい、心も体調も軽くなって、新しい命を授かりました。
しかし8週で心拍確認できず。 9週に入ったところで稽留流産との診断が下されました。 検診前日は、怖くて怖くて気が狂いそうでした。
同時期に妊娠した知り合いは順調で、 「なんで私ばっかり」自分のすべてが嫌になりました。 からだも想いも。
これも意味があった…と思える日がくるんだろうか。
まだ自然に流れてくるのを待っている状態です。 私は何か償わなきゃいけないんでしょうか また暗黒な日々になるのかな…
こんな思いをしてる人がいるなんて知らない人たくさんいるんだろうな
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Name: ソラマメ ..au-net.ne.jp
Date: 2014/03/17(月) 15:15
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Title: 19週破水後、20週での人工死産
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私は、子宮外妊娠と心拍確認前の繋留流産を1回ずつしています。
その後自然妊娠し、無事に心拍も確認できて経過は順調でした。 19週に入ったところで腹痛があり、その後破水してしまいました。 22週以前であったため、赤ちゃんを救うことは難しく、人工死産となりました。 破水の原因はわからず、感染も認められませんでした。 つらくて悲しくて現実じゃないような感覚になったりしていました。
入院してからは、破水のことや死産のことを調べるうちに、同じような経験をしているママたちがたくさんいることに驚きました。 経験談を読んだことで、1人じゃないんだと思えることができ、とても救われました。 家族やパートナーも悲しんでいますが、体の痛み、心の痛みを分かり合えるのは、やはり同じ経験をされている方々だと感じます。
火葬が済み、少し体も心も落ち着いてきたため、私が救われたように誰かの役に立てばと投稿させていただきました。 悲しみが消えることはありませんが、前を向いて歩き出すことはできますよ。 空に帰った赤ちゃんは見守っていてくれていると思い生きていきます。
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Name: ムーミン ..ocn.ne.jp
Date: 2014/03/15(土) 19:37
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Title: 40週3日 子宮内胎児死亡 C
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わたしは息子を産んだ日のまま、不思議なくらい現実味のない感覚と、誰にぶつけたらいいのかもわからない怒りと、そして、何をみてもなんだか灰色がかったような自分の生きる世界と、後悔と、哀しみが折混ざったような、胸の底がいつも熱くて、叫びだしたくなるような気持ちのまま、毎日を過ごしていました。
わたしが楽しいことはひとつもなかったけど、不思議と死にたいとは思いませんでした。 生きなくちゃと、思っていました。
娘の幸せと、夫の幸せのためにわたしは必要なんだと、そう思っていました。
涙を見せない夫が書斎で背中を向けて何かを見ている時、背中が泣いているような気がして、娘が笑顔でわたしを抱きしめてくれるたびに、娘はなにもかも分かっていて、分からないふりをしてくれているんじゃないかってそんな気がしていました。
二人共、直接的なことはわたしに何も言わなかったけれど、だけど、二人はわたしがただ生きているだけで幸せでいてくれるんだっていうことを感じさせてくれました。 家族も友だちもそうでした。
わたしがいなくなったら悲しむ人たちがいる、今のわたしのような悲しみを夫にも娘にも絶対させたくなかったから。 それだけが、日常に置いて行かれ続けるわたしの、だけど、前に進もう。っていう原動力になりました。
心の底から誰かをうらやましいとか、誰かがねたましいとか、そういう気持ちをはじめて持ったのは、 2008年の2回目の子宮外妊娠の手術の後でした。
3ヶ月後に控えた親友のはじめての出産も、 5ヶ月後に控えた弟夫婦のはじめての出産も、 うらやましく、ねたましかったのです。
どうして、彼らに赤ちゃんがいて、私はなぜ2度目も赤ちゃんを見送らなくてはいけないのか。という理不尽な気持ちで一杯でした。
世の中のどの妊婦さんをみても、どの赤ちゃんをみても、ただねたましく、自分の中に渦巻く黒い感情を外にださないようにすることが精一杯でした。
親友の赤ちゃんにはしばらく会いに行きませんでした。
弟の赤ちゃんに会った帰りの車ではただ泣きました。
赤ちゃんはとてもかわいかったけれど、それは、私にだってもたらされたはずのあたたかいぬくもりだったっていう風に思ったら、なんだか無性にかなしくて、そんな風に思う自分もとても嫌で、自分を嫌いになりました。
頑張ればたいていのことはできると信じて今までの人生頑張って来たけれど、頑張ってもどうにもならないこともあるんだって気づいたからかもしれません。
多くの人が努力なんてしなくてもできていることができないことによくわからない焦燥感を抱いていたのかもしれません。
だけども、息子が死んでしまったあと、わたしの中にあのときのような黒い感情がわき上がらないことが、実は自分でもとても不思議でした。
友だちの赤ちゃんを見るのは辛かったけど、とりわけ授乳中のともだちをみるのは胸が切り裂かれるように辛かったけれど、ねたましくはなかったのです。うらやましくもなかったのです。
だけども、うらやましくねたましかったあの頃よりもひどく辛かったのです。
本当に自分の悲しみと向き合う時にはうらやましさとかねたましさとかを超えて、ただ悲しいのかもしれないと思いました。
そして、自分が大事に思う人が生きていてくれることがただありがたいと、そう思っていました。
代わりに、自分にとって大事でない人やしらないママや赤ちゃんのことが目に入らないようになりました。
目に入っても排除するようになりました。
それはもしかしたら自分の気持ちを防御するために知らず知らずやっていたことなのかも知れません。そうして、日々を過ごしているうちに、周りには大切な人だけが残りました。
だけども大切な人と会っている時が実はわたしには一番しんどい時間でした。
わたしの大切な人たちは心からわたしのことを心配してくれていて。わたしの気持ちに触れそうな話題をすべて避け、ただ側にいてくれたのだけど。
前のようになにも考えないで笑い合える日々はもうこないのではないかって、そんな風に錯覚してしまうくらいにさみしい気持ちになりました。
そして、さみしい気持ちを通り越したら今度は拒絶の気持ちが湧いてきました。
絶対にわたしの気持ちなんてわかりっこないんだと、息子のことがかなしいといってわたしと一緒にいるときに泣いてくれていたって、それぞれの日常に帰ったらわたしのかなしみなんて忘れて自分の生活に戻るくせに。とそんなこと当たり前のことなのに、勝手にかなしくなって大事なともだちをこころの中で拒絶していました。
そんな拒絶の気持ちは多分相手にもちゃんとつたわっていて。
だからぎくしゃくとした空気につつまれた時間を過ごしていたように思います。
息子の死がわたしに黒い気持ちを残さなかったことは、息子が息子の形をしてわたしに会いにきてくれたからだと今はわかります。そして、ぎくしゃくしていても、それでもなにも気づかないふりをして会ってくれたともだちには、もうすこし時間がたってからとてもとても感謝することになりました。
息子が死んで1年たった9月18日にわたしたちの家は花であふれました。
うつくしい花束がわたしたちの家につぎからつぎへと届きました。
1年間、必死で日常を取り戻すために日常に向かい合ってきたわたしは息子のことをこころの奥深くにしまって生きていましたが、この日を迎えるにあたり、だいじなことは息子を思い出すことだと、あの日の記憶をもう一度呼び戻しました。わたしにとって、それはタフな試みで。
しっかりと思い出すことはもう一度胸を切り裂かれるような痛みを思い出すことだけれど、ひとつひとつ宝もののようにしっかりと胸に思い起こし、息子を思って泣いていました。
そんなわたしの側にはたくさんの花と、1年分の成長をした娘と大切な夫がいて。
今までよりもっと深くなった家族やともだちとの絆を感じたら、これからの日々がよろこびと幸せに包まれているような気がして、そして、それは息子からわたしへの贈り物のような気がしました。
人生はとてもみじかくて、だけどもとても美しくて。
何が大事で何が大事でないかって知ることができたことはわたしのこれからの人生を今までよりもっと豊かにしてくれるんじゃないかって、そんな風に思いました。
生き甲斐ややりがいは人生のおまけで、それよりも今自分が大事にしたいと思える家族やともだちがいてくれることがなによりも幸せなことなんじゃないかって、そんな風に思いました。
わたしは4回妊娠して、今、地上にはひとりの娘がいます。
きっと娘はきょうだいたちに守られて、これからも幸せに自分の人生を進んでいくことができるんじゃないかって、そんな風に思っています。
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Name: ムーミン ..ocn.ne.jp
Date: 2014/03/15(土) 19:35
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Title: 40週3日 子宮内胎児死亡B
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息子を産んでから1ヶ月、私はおっぱいをしぼり続けました。
毎日、きっちり3時間おきに搾乳機をつかってしぼりました。
夜寝ているときも、3時間おきにしぼりました。一度に両胸で150mlのおっぱいを出していました。
そうしないと、息子を産んだこと自体が幻だったんじゃないかと思ってしまうんじゃないかって怖かったからです。
しぼって、おっぱいがでてくるのをみて、わたしは赤ちゃんを産んだのだと実感していました。
実感し、そして、毎回泣いていました。
どこかの赤ちゃんに飲んでほしいとすら思いました。
飲んでもらったら、少しの間でも息子がまだ生きていると錯覚させてもらえるんじゃないかって思っていました。
あかちゃんにおっぱいをあげている友人を見たら、勝手に傷ついていました。
今までちゃんと見れていたことから目をそむけるようになりました。
周りの人の目がとても気になるようになりました。
娘がいるから、娘の日常は守らなくっちゃと必死で外にでていました。搾乳機をもって、娘のおともだちと遊ばせている合間をみて時間になったら搾乳をしました。
そとでは一生懸命に涙をこらえました。
家に帰るとどっと疲れて、泣きました。
娘は「ハナちゃんがママをマモルよ」と搾乳の度にわたしを抱きしめてくれました。
夫は搾乳をするわたしにはなにも言わず、いるときは手伝いをしてくれました。
新生児が飲む以上に搾乳をしていたからか、時間がくるとおっぱいがパンパンにはって、痛くて痛くて、一日中おっぱいのことばかり考えていました。
生きていたら息子が飲んでくれていたであろうおっぱいをシンクに捨てるたびに、息子の死を実感していました。
搾乳をすることで自分自身をいじめ続けていたのかもしれません。
息子が死んだのは、だれのせいでもなく、自分のせいだと思うことが一番楽でした。
だれかのせいにして、その人を一生恨んでいく人生を送ることはとても醜く、哀しいことだと、いやというほどわかっていたからかもしれません。
だから、自分をいじめるのが一番楽でした。
このままずっと自分をいじめ続けていたら、どうなるだろうって少しだけ考え始めたのは搾乳をはじめてから1ヶ月がたった頃でした。
自分を責め続ける妻やママを持った夫や娘はどんな気持ちだろうとはじめて考えることができました。
ハッピーでない妻やママをもたなきゃいけない夫や娘はこれからどうなってしまうんだろうとはじめて考えることができました。
夫や娘には幸せな毎日を送ってほしい。そう思うのなら、自分だって幸せじゃなくっちゃ、幸せだと感じる毎日を取り戻さなきゃダメだって気づきました。
そして、搾乳をやめようと決めました。
息子を産んで1ヶ月たった日にそう決めました。
やめるのなら、わたしの体に負担が残らない形でしっかり断乳していこうと、搾乳時間を徐々にあけ、すこしづつ搾乳する量を減らして行きました。
息子を産んで2ヶ月ほどたったある日、ようやく完全に搾乳をやめることができました。
搾乳機を返却した日、ようやく家族の幸せをもう一度前向きに考えようと決意することができました。
息子が死んでしまったからといって、どんなにかなしいからといって、家に閉じこもることだけはやめようと、それだけは心に決めていました。
娘の2歳の大事な多感な時期に2人で家に引きこもることだけは絶対にやめようと思っていました。
娘にだけは辛い思いをさせたくない、それだけがわたしが生きている意味のような気がしていた日々でした。
娘のおともだちとなるべく会う約束をいれました。公園にも連れて行きました。学校にも、スーパーにも前と変わらずでかけました。
娘が笑顔でいること、1日が終わって娘が笑顔でいたことだけが喜びでした。
わたしのその頃の日々の記憶は娘の成長のこと以外、ほとんど残っていません。
ただ、毎日、おともだちのちいさな赤ちゃんを直視できなくて目をそらしていたことに気づかれなかったか、公園でのふるまいは自然だったか、しっかり笑顔をつくれていたか、学校の合間もスーパーでも、下を向かないように、誰か知っている人に見られても、ちゃんと前のわたしでいられているか、そればかり考えていました。
私が、娘が、かわいそうだと、そんな風に思われることが一番イヤだったから、外にいる間はひたすらに自分の表情を気にかけていました。
そんな風に一生懸命に日常についていこうとしたのに、家にかえるとわたしひとりが日常に置いて行かれているような気持ちになっていました。
わたしの世界と周りの世界が違う時計で動いているような気がしました。
〜40週3日 子宮内胎児死亡Cへ続く
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Name: うまちゃんママ ..au-net.ne.jp
Date: 2014/03/11(火) 18:56
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Title: 23週 臍帯過捻転 死産
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2月26日に初めて妊娠した子を死産しました。 264gの旦那によく似た、かわいい女の子でした。 20週での健診では異常なく、エコーでは元気に動いていました。それから数日後、胎動が少ないように感じましたが、出血やお腹の張りもなかったため、気にしすぎは良くないと思いいつもどおり過ごしていました。 次の1ヶ月後の健診で、お腹にエコーを当てた時に赤ちゃんの心拍が確認できないと先生から言われ、頭が真っ白になりました。 翌日に他院へ入院し、促進剤を使用して出産。産声のない我が子と対面しました。 自分が出産する5日前に、同じ病院で妹が元気な女の子を出産し、一足早く実家に帰りましたが、赤ちゃんを見るのが怖く、私はアパートに帰ってきました。未だに、妹の赤ちゃんに会いにいけていません。 正直、今はまだ現実を受け入れられず、家に引きこもっていますが、今回の経験で今ある命の奇跡、旦那と結婚できて本当に幸せだと思っています。 もし許されるのであれば、また旦那の子を宿し、元気な子を抱いて欲しいと思います。
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Name: ムーミン ..ca.comcast.net
Date: 2014/03/09(日) 15:18
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Title: 40週3日 子宮内胎児死亡A
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9月27日に、息子の火葬が終わって、息子がようやく天に還っていったんだとほっとしました。 雲一つない、きれいな青い空が広がっていた1日でした。風もなく、まるで、まっすぐ天国に行けたことを息子が教えてくれているみたいな穏やかで静かな美しい空でした。 お見送りの会の前の日から、夜中に必ず凍えそうに寒くて目が覚めて、息子はまだ冷たい部屋にいるんだと思って、ただ泣けた毎日だったから、こうして火葬が終わって、小さくなったけど息子がわたしたちの側に戻ってきてくれて、そして、きっと魂は天国に還っていったんだって思いました。だからほっとしました。 お見送りの会に来てくれた方たちやお花を送ってくれた方たちには、お見送りの会が終わった日からすべて方たちの顔を思い浮かべながら一日中手紙を書き続けていました。3日ほど手紙を書き続け、投函してきました。 わたしのことを心配してくれている、すべての方たちにこれ以上心配をかけたくなくて、そして、もうこれ以上家族を泣かせたくなくて、一生懸命自分の気持ちを立て直そうとがんばってきたこの2週間と数日。 前にちゃんと進んでいこうと、一生懸命がんばって。きっともう大丈夫だって思っていました。 今までだって妊娠、出産に関しては辛いことを経験してきたんだから。自分の気持ちを立て直すのは大丈夫だと思ってました。 だけど、息子を天に見送って、手紙を全部投函しおわって。そうしたら、わたしが息子に注ぎたかった愛情が溢れはじめて、溢れて、溢れて、どうしていいのかわからなくて、気がつくと涙がかわりにボロボロとばかみたいに溢れてきました。 お別れの会では、息子はちゃんとわたしの心の中にいることが分かっているから、近いうちに前を向いて歩いて行けるってみんなに言えたのに。 みんなに宛てて書いた手紙には、心配かけないように、前向きな言葉をちゃんと書けたのに。 普通の日常に戻ることができないわたしが、なんだか一人おいてけぼりみたいでさみしくて。 自分自身を責めて、きっと避けられなかった運命だったのに、時が戻ってほしいと祈って、夢だったらいいのにと願って、やっぱり現実なんだと気づき、そしてまたばかみたいに泣いていました。 息子を出産してからの2週間と数日はわたしにとって、何ヶ月もたったかのような長い長い時間でした。過ぎてしまえばあっという間だったんだろうと思うのですが、だけど、息子を産んだあの日が、うそみたいに遠い日に感じていました。 前向きになろうとして、無理矢理に自分を立て直していたけれど、やっぱりそう簡単にはいきませんでした。 息子に会えたことが本当に幸せだったと、そして息子を産むことができたことも本当に幸せだったと、いつか思う日がくると思うのだけれど。 だけど、息子に会ってしまったから。眠るように穏やかな顔で、かわいい顔で。死んでいるなんてうそみたいに、わたしの両手にしっかり重みを感じさせてくれた息子に会ってしまったから。 これからもわたしの心の中に住んでいく息子への愛情を注ぎ続けるつもりだけれど。 愛情が溢れて、溢れてとまりませんでした。 娘に、夫に、そして、大事な家族や友人たちに注ぐ愛情とは別にちゃんと用意していた息子へのわたしからの愛情を。 これからどうしたらいいのかと、途方にくれました。 気持ちをコントロールするのはやっぱりそんなに簡単ではありませんでした。 だから、いつか、こんなわたしの気持ちも全部含めて、息子との思い出になる日がくるに違いないと信じるしかありませんでした。
〜40週3日 子宮内胎児死亡B へ続く
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Name: ムーミン ..ca.comcast.net
Date: 2014/03/09(日) 15:17
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Title: 40週3日 子宮内胎児死亡@
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少し長くなりますが、息子の死から1年半たってようやく自分の気持ちを整理でき、この1年半葛藤したことが、このサイトにいらっしゃる方の少しでも励みになればと思い書かせていただきました。
1年半前、このサイトを知り、毎日のようにみなさんの体験を読んで、自分に起こった出来事を現実をして受け止めようとしていたことを思い出します。
その節は本当にお世話になりました。
以下がわたしの体験になります。
2012年9月18日、息子が静かに誕生しました。 陣痛が来て、5分間隔になって、そして病院に到着したら、息子の心肺は停止していました。 今までに自分でも聞いたことのない声で、叫び続けながら息子を出産しました。 頭の中は、ちゃんと産まなきゃ。という思いだけだったように思います。 もしかしたら産んだら誰かが助けてくれるんじゃないかという錯覚もして。 産まれた息子はやっぱり産声をあげず、肌はきれいなピンク色なのに、唇だけが紫色で。わたしの体温がまだ息子をあたためていたからか、抱き上げた息子はとてもあたたかくて。 髪の毛は黒くフサフサとしていました。 やっぱり目を開けない息子を抱っこしながら、きっとこのあたたかいぬくもりとやわらかな肌の感触がすぐに失われてしまうのだろうと直感していたのか、この感触をずっとを覚えていなければいけないと、私は産まれた息子のほほをずっとなでていました。
息子が産まれた夜は家族だけで過ごしました。 産んだ後のことは細かくはよく覚えていないけれど、涙だけがずっととまらなかったのを覚えています。どこかで、これは夢かもしれないと思っていたのか、とても静かに、声もでず、涙だけがずっと流れ続けていました。わたしはなにを考えているのか、何を感じているのか、それすらもよく分からずに、夫や母に手を握ってもらって過ごしていたように記憶しています。 娘は産まれた赤ちゃんをイイコイイコしていました。わたしのこともイイコイイコしてくれていました。 眠れない夜だったけど、昼間も眠れませんでした。現実に直視しつづけていたらどうにかなりそうだったら薬をもらったのだけど、飲む気力もなく、呆然としていました。 一晩ずっと側にいてくれた母と娘にはいったんおうちに帰ってもらいました。 ずっと側にいてくれた夫にも少しソファで寝てもらいました。 一晩過ぎたら今度は怖くなりました。 息子のように、みんながわたしのもとからいなくなってしまったらどうしよう。 ひとりぼっちになったらどうしよう。 ひとりぼっちになるくらいならわたしがいなくなってしまった方がいいのかもしれないということさえ思いました。 夫は誰もいなくならないって言ってくれました。娘は「ママをマモルよ」って言ってくれました。母は家族みんなでちゃんと生きていけるよって言いました。 わたしは静かに家族の言葉をひたすら反芻し、ベッドの脇の手すりを見ながらずっと自分の気持ちを整理しようとしていたように思います。 だけど、手すりを見ていても気持ちは整理されなくて。そして、その時に整理していることもきっと忘れてしまうと思いました。 だから、前向きに、夫と娘と生きていくために、わたしは今の気持ちを書き留めておかなくてはならないとそのときに思いました。だから、パソコンを取り出してこんな風に書きました。 『これからもっと大きな喪失感がくると言われました。怒りも感じ、気持ちも落ち込むと言われました。 多分そうなんだと思います。 でも、だからこそ、そんな近い未来のわたしに手紙を書きます。 夫がいてくれる。娘がいてくれる。両親もいてくれる。おともだちも側にいてくれる。みんなわたしを心配してくれる。 きっとわたしがひとりぼっちになることなんてない。 だから、強く生きて行かなくちゃ。 娘を守って、夫を支えて、両親に親孝行して、おともだちと笑い合って、楽しい時間をこれからだって過ごしていくんだもの。 息子のキレイな顔を忘れない。産まれてきてくれた瞬間の感触を忘れない。腕に抱いたときの重みを忘れない。 息子がわたしのもとに来てくれた事実を忘れない。 しばらくは泣けちゃう日々が続くと思うけれど、落ち込んだり、悲しかったり、腹がたったりもするんだと思うけれど。 わたし、がんばれ。大切な人たちが側にいてくれることを忘れないで。』 そんな風に書きました。 息子が産まれた日を境にわたしの内面は今までとはまったく違うわたしになったような気がします。
〜40週3日 子宮内胎児死亡Aへ続く
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