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   40週3日 子宮内胎 ....   
   40週3日 子宮内胎 ....   

Name: ムーミン    ..ocn.ne.jp
Date: 2014/03/15(土) 19:37
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Title: 40週3日 子宮内胎児死亡 C    
わたしは息子を産んだ日のまま、不思議なくらい現実味のない感覚と、誰にぶつけたらいいのかもわからない怒りと、そして、何をみてもなんだか灰色がかったような自分の生きる世界と、後悔と、哀しみが折混ざったような、胸の底がいつも熱くて、叫びだしたくなるような気持ちのまま、毎日を過ごしていました。

わたしが楽しいことはひとつもなかったけど、不思議と死にたいとは思いませんでした。
生きなくちゃと、思っていました。

娘の幸せと、夫の幸せのためにわたしは必要なんだと、そう思っていました。

涙を見せない夫が書斎で背中を向けて何かを見ている時、背中が泣いているような気がして、娘が笑顔でわたしを抱きしめてくれるたびに、娘はなにもかも分かっていて、分からないふりをしてくれているんじゃないかってそんな気がしていました。

二人共、直接的なことはわたしに何も言わなかったけれど、だけど、二人はわたしがただ生きているだけで幸せでいてくれるんだっていうことを感じさせてくれました。
家族も友だちもそうでした。

わたしがいなくなったら悲しむ人たちがいる、今のわたしのような悲しみを夫にも娘にも絶対させたくなかったから。
それだけが、日常に置いて行かれ続けるわたしの、だけど、前に進もう。っていう原動力になりました。

心の底から誰かをうらやましいとか、誰かがねたましいとか、そういう気持ちをはじめて持ったのは、
2008年の2回目の子宮外妊娠の手術の後でした。

3ヶ月後に控えた親友のはじめての出産も、
5ヶ月後に控えた弟夫婦のはじめての出産も、
うらやましく、ねたましかったのです。

どうして、彼らに赤ちゃんがいて、私はなぜ2度目も赤ちゃんを見送らなくてはいけないのか。という理不尽な気持ちで一杯でした。

世の中のどの妊婦さんをみても、どの赤ちゃんをみても、ただねたましく、自分の中に渦巻く黒い感情を外にださないようにすることが精一杯でした。

親友の赤ちゃんにはしばらく会いに行きませんでした。

弟の赤ちゃんに会った帰りの車ではただ泣きました。

赤ちゃんはとてもかわいかったけれど、それは、私にだってもたらされたはずのあたたかいぬくもりだったっていう風に思ったら、なんだか無性にかなしくて、そんな風に思う自分もとても嫌で、自分を嫌いになりました。

頑張ればたいていのことはできると信じて今までの人生頑張って来たけれど、頑張ってもどうにもならないこともあるんだって気づいたからかもしれません。

多くの人が努力なんてしなくてもできていることができないことによくわからない焦燥感を抱いていたのかもしれません。

だけども、息子が死んでしまったあと、わたしの中にあのときのような黒い感情がわき上がらないことが、実は自分でもとても不思議でした。

友だちの赤ちゃんを見るのは辛かったけど、とりわけ授乳中のともだちをみるのは胸が切り裂かれるように辛かったけれど、ねたましくはなかったのです。うらやましくもなかったのです。

だけども、うらやましくねたましかったあの頃よりもひどく辛かったのです。

本当に自分の悲しみと向き合う時にはうらやましさとかねたましさとかを超えて、ただ悲しいのかもしれないと思いました。

そして、自分が大事に思う人が生きていてくれることがただありがたいと、そう思っていました。

代わりに、自分にとって大事でない人やしらないママや赤ちゃんのことが目に入らないようになりました。

目に入っても排除するようになりました。

それはもしかしたら自分の気持ちを防御するために知らず知らずやっていたことなのかも知れません。そうして、日々を過ごしているうちに、周りには大切な人だけが残りました。

だけども大切な人と会っている時が実はわたしには一番しんどい時間でした。

わたしの大切な人たちは心からわたしのことを心配してくれていて。わたしの気持ちに触れそうな話題をすべて避け、ただ側にいてくれたのだけど。

前のようになにも考えないで笑い合える日々はもうこないのではないかって、そんな風に錯覚してしまうくらいにさみしい気持ちになりました。


そして、さみしい気持ちを通り越したら今度は拒絶の気持ちが湧いてきました。

絶対にわたしの気持ちなんてわかりっこないんだと、息子のことがかなしいといってわたしと一緒にいるときに泣いてくれていたって、それぞれの日常に帰ったらわたしのかなしみなんて忘れて自分の生活に戻るくせに。とそんなこと当たり前のことなのに、勝手にかなしくなって大事なともだちをこころの中で拒絶していました。


そんな拒絶の気持ちは多分相手にもちゃんとつたわっていて。


だからぎくしゃくとした空気につつまれた時間を過ごしていたように思います。


息子の死がわたしに黒い気持ちを残さなかったことは、息子が息子の形をしてわたしに会いにきてくれたからだと今はわかります。そして、ぎくしゃくしていても、それでもなにも気づかないふりをして会ってくれたともだちには、もうすこし時間がたってからとてもとても感謝することになりました。

息子が死んで1年たった9月18日にわたしたちの家は花であふれました。

うつくしい花束がわたしたちの家につぎからつぎへと届きました。


1年間、必死で日常を取り戻すために日常に向かい合ってきたわたしは息子のことをこころの奥深くにしまって生きていましたが、この日を迎えるにあたり、だいじなことは息子を思い出すことだと、あの日の記憶をもう一度呼び戻しました。わたしにとって、それはタフな試みで。

しっかりと思い出すことはもう一度胸を切り裂かれるような痛みを思い出すことだけれど、ひとつひとつ宝もののようにしっかりと胸に思い起こし、息子を思って泣いていました。


そんなわたしの側にはたくさんの花と、1年分の成長をした娘と大切な夫がいて。


今までよりもっと深くなった家族やともだちとの絆を感じたら、これからの日々がよろこびと幸せに包まれているような気がして、そして、それは息子からわたしへの贈り物のような気がしました。


人生はとてもみじかくて、だけどもとても美しくて。

何が大事で何が大事でないかって知ることができたことはわたしのこれからの人生を今までよりもっと豊かにしてくれるんじゃないかって、そんな風に思いました。


生き甲斐ややりがいは人生のおまけで、それよりも今自分が大事にしたいと思える家族やともだちがいてくれることがなによりも幸せなことなんじゃないかって、そんな風に思いました。

わたしは4回妊娠して、今、地上にはひとりの娘がいます。

きっと娘はきょうだいたちに守られて、これからも幸せに自分の人生を進んでいくことができるんじゃないかって、そんな風に思っています。





Name: ムーミン    ..ocn.ne.jp
Date: 2014/03/15(土) 19:35
     削除 
Title: 40週3日 子宮内胎児死亡B    
息子を産んでから1ヶ月、私はおっぱいをしぼり続けました。

毎日、きっちり3時間おきに搾乳機をつかってしぼりました。

夜寝ているときも、3時間おきにしぼりました。一度に両胸で150mlのおっぱいを出していました。

そうしないと、息子を産んだこと自体が幻だったんじゃないかと思ってしまうんじゃないかって怖かったからです。

しぼって、おっぱいがでてくるのをみて、わたしは赤ちゃんを産んだのだと実感していました。

実感し、そして、毎回泣いていました。

どこかの赤ちゃんに飲んでほしいとすら思いました。

飲んでもらったら、少しの間でも息子がまだ生きていると錯覚させてもらえるんじゃないかって思っていました。

あかちゃんにおっぱいをあげている友人を見たら、勝手に傷ついていました。

今までちゃんと見れていたことから目をそむけるようになりました。

周りの人の目がとても気になるようになりました。

娘がいるから、娘の日常は守らなくっちゃと必死で外にでていました。搾乳機をもって、娘のおともだちと遊ばせている合間をみて時間になったら搾乳をしました。

そとでは一生懸命に涙をこらえました。

家に帰るとどっと疲れて、泣きました。

娘は「ハナちゃんがママをマモルよ」と搾乳の度にわたしを抱きしめてくれました。

夫は搾乳をするわたしにはなにも言わず、いるときは手伝いをしてくれました。

新生児が飲む以上に搾乳をしていたからか、時間がくるとおっぱいがパンパンにはって、痛くて痛くて、一日中おっぱいのことばかり考えていました。

生きていたら息子が飲んでくれていたであろうおっぱいをシンクに捨てるたびに、息子の死を実感していました。

搾乳をすることで自分自身をいじめ続けていたのかもしれません。

息子が死んだのは、だれのせいでもなく、自分のせいだと思うことが一番楽でした。

だれかのせいにして、その人を一生恨んでいく人生を送ることはとても醜く、哀しいことだと、いやというほどわかっていたからかもしれません。

だから、自分をいじめるのが一番楽でした。

このままずっと自分をいじめ続けていたら、どうなるだろうって少しだけ考え始めたのは搾乳をはじめてから1ヶ月がたった頃でした。

自分を責め続ける妻やママを持った夫や娘はどんな気持ちだろうとはじめて考えることができました。

ハッピーでない妻やママをもたなきゃいけない夫や娘はこれからどうなってしまうんだろうとはじめて考えることができました。

夫や娘には幸せな毎日を送ってほしい。そう思うのなら、自分だって幸せじゃなくっちゃ、幸せだと感じる毎日を取り戻さなきゃダメだって気づきました。



そして、搾乳をやめようと決めました。

息子を産んで1ヶ月たった日にそう決めました。

やめるのなら、わたしの体に負担が残らない形でしっかり断乳していこうと、搾乳時間を徐々にあけ、すこしづつ搾乳する量を減らして行きました。

息子を産んで2ヶ月ほどたったある日、ようやく完全に搾乳をやめることができました。

搾乳機を返却した日、ようやく家族の幸せをもう一度前向きに考えようと決意することができました。



息子が死んでしまったからといって、どんなにかなしいからといって、家に閉じこもることだけはやめようと、それだけは心に決めていました。

娘の2歳の大事な多感な時期に2人で家に引きこもることだけは絶対にやめようと思っていました。

娘にだけは辛い思いをさせたくない、それだけがわたしが生きている意味のような気がしていた日々でした。

娘のおともだちとなるべく会う約束をいれました。公園にも連れて行きました。学校にも、スーパーにも前と変わらずでかけました。

娘が笑顔でいること、1日が終わって娘が笑顔でいたことだけが喜びでした。

わたしのその頃の日々の記憶は娘の成長のこと以外、ほとんど残っていません。

ただ、毎日、おともだちのちいさな赤ちゃんを直視できなくて目をそらしていたことに気づかれなかったか、公園でのふるまいは自然だったか、しっかり笑顔をつくれていたか、学校の合間もスーパーでも、下を向かないように、誰か知っている人に見られても、ちゃんと前のわたしでいられているか、そればかり考えていました。

私が、娘が、かわいそうだと、そんな風に思われることが一番イヤだったから、外にいる間はひたすらに自分の表情を気にかけていました。

そんな風に一生懸命に日常についていこうとしたのに、家にかえるとわたしひとりが日常に置いて行かれているような気持ちになっていました。

わたしの世界と周りの世界が違う時計で動いているような気がしました。


     〜40週3日 子宮内胎児死亡Cへ続く



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