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 2022年2月14日(月)
 鎌倉幕府倒幕の密議とおちょぼさん
 他にやらなければならないことが沢山あるのだが、今日は昨日投稿した『天ケ瀬おちょぼ稲荷神社の由来』について書かれてある看板について、いろいろ調べた。 
 
 書かれていることにどれくらいの信ぴょう性があるのか、一応投稿した以上、立場もあるので調べておかないといけないという思いもある。 
 
 それでまず、鎌倉時代末期の歴史について、いろいろ勉強した。看板に出て来る後醍醐天皇・鎌倉幕府執権 北条高時・後醍醐天皇側近 日野資朝(ひのすけとも)・土岐頼貞・多治見国長などについてもネットや可児市史で調べた。 
 
 今はYouTubeで歴史について簡単に動画で学べるようになっている。その中で看板に出ている人の名前の共通点は1324年に起きた「正中の変」が浮かび上がって来る。 
 
 可児市史第二巻(通史編 古代・中世・近世)の75ページにはこのように書かれている。 
 
「土岐頼貞の時に正中の変(しょうちゅうの変)が起こった。元寇によって諸国の疲弊や不満が大きくなったのを見た後醍醐天皇は、正中元年(1324年)に、密かに討幕の計画をすすめた。そして、天皇の腹心の日野資朝卿から土岐氏にもこれが伝えられので、土岐伯耆十郎頼兼と多治見蔵人国長がこれに応じて上京した。 
 
 この正中の変は、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の最初の試み(朝廷内の陰謀説もあり)で、密告されて土岐頼兼や多治見国長は殺害され、日野資朝は佐渡島に流罪となるのだが、まさにその最初の接点が、可児市のおちょうぼ稲荷の洞窟で行われた…というスチュエーションは、時代考証的には符合する。 
 

 その洞窟というのは、昭和の時代に掘られた洞窟とは違い、おちょうぼ稲荷の山(天ヶ峯)の頂上直下にある。昨日は雨で行けなかったが行ってみた。洞窟というよりは吹き抜けになっていて、幅10mくらいの空間がある。当時は吹き抜けでなく一方が塞がれていたものと思われる。 
 
 昨日のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、源頼朝が落ち延びてゆく描写の中で広い洞窟の中のようなところで家来らと話し合う場面があったが、10人くらいなら話し合うのにちょうど良い広さだ。 
 
 だが、可児市史にも、ここで倒幕の密議が交わされたとは書かれていない。文化財課に問い合わせてみた。文献等は見つからないという。ただ、単なる伝承にしては詳しすぎる。 
 
 林則夫議員によると、この看板は以前に東明小学校の校長をやっていた郷土史家が書いたという。そのような方が、根も葉もないことを書くとは考えられず、何らかの文献があったものと思われ、調べてみますとの返事だった。 
 

 この看板にはもう一つ重要なことが書かれている。おちょぼ稲荷の由来である。この文面からは後醍醐天皇の側近である日野資朝が「山城国伏見稲荷の御神霊倉稲魂神・猿田彦命・大宮女命の三座の御分霊を羽崎の豪族に『千代に八千代に保ち奉れ』と譲り渡されたという。 
 
 いわばこれが、天ヶ峯おちょうぼ稲荷神社の起源であり、それは1324年より少し前だと想定できる。 
 
 おちょうぼ稲荷といえば、岐阜県海津市にある千代保稲荷神社が有名で、年間250万人もの参拝者があるという。林則夫議員によると、あちらは分家で本家は可児市なんだという。 
 
 海津市の千代保稲荷神社の由来を見ると、起源は平安時代とあるが、実際に創建されたのは室町時代文明年間(1469年〜1486年)とのこと。 
 
 今更、本家争いでもないが、同じおちょうぼさんで商売繁盛がメインのお稲荷さんであり、どういう関係があるのか気になる。 
 
 結局のところ、過去の歴史について絶対的な正解はほぼあり得ない。これは明智光秀に関することでもいやというほど感じた。でも、その分からないことこそが『歴史ロマン』であり、それをきっかけに歴史を学ぼうという気になる人が増えるだけでも意義がある。 
 
 私のようなにわか歴史ファンではなんともならないが、地域には相当詳しく歴史を調べている方がいる。この鎌倉幕府倒幕の密議やおちょぼ稲荷の起源等についても、『可児市のじまんと誇り』に載せられるくらい少しでも解明に近づけたらありがたい。
 


  この件で大変お世話になっております。
私は洞窟祭りを体験したことがあり、その後、どうなっているのか気になっていました。
何度か現地を訪れるうち、あの鎌倉幕府倒幕の密議が書かれた看板を見つけ、驚くたともに、より興味を持ちました。
戦時中に軍需工場として掘られ、その後、夏祭りが行われていたというだけでも非常に興味深いのに、その上部では鎌倉幕府倒幕の密議まで行われていたとなると、興味が尽きません。
山根先生、林先生にもご協力いただき、訪問を重ねるごとに少しずつ新たなことが分かり、事態が進展し、宝探しをしているかのような楽しさも感じてます。
山根さんが書かれているように、謎を完全に解明することはできないと思います。
しかし、そうした説があることが分かるだけでも、とてもワクワクします。
このワクワクを多くの人と分かち合えるように、もう一息、ともに頑張ってみましょう。
引き続き、よろしくお願いします。
鹿取茂雄 ..2/15 12:50(火)

  鹿取さん投稿ありがとうございます。地元にいながら、洞窟まつりは一度も行かないままに終わってしまいました。ほとんど、忘られかけていたあの洞窟に命を与えてくれました。
 洞窟の中での夏祭りは、日本中であの場所だけだったということも知りました。鎌倉幕府討幕の密儀の話もしりませんでした。
 洞窟というのは冒険心を搔き立てます。こんな面白いところが可児市内にあることを気づかせていただきありがとうございます。
山根 一男 ..2/18 22:02(金)
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