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   妊娠30週・死産   
   妊娠18週・無脳症   
     ・[114] 智和ママ 

Name: ノアママ    ..bbtec.net
Date: 2005/04/12(火) 22:03
     削除 
Title: 妊娠30週・死産    
2004年1月に妊娠が判明。ずっと無排卵で妊娠しにくいと言われ、治療を始めてすぐの妊娠でとても嬉しかったです。経過は順調でした。当たり前に産まれてきてくれると思っていました。6月の終わりには八ヶ月検診と両親学級が重なったので、旦那も休みを取ってもらって一緒に検診に行きました。検診では異常もなく順調だと言われました。旦那も初めて見るエコーにとても感動しているようでした。性別も女の子だと分かり、両親学級の帰り道は二人でこれからの赤ちゃんとの生活を想像しながらたくさん話しをしたのを覚えています。本当に幸せでした。

それからすぐに悲しい別れとなってしまいました。7月5日いつものように家で夕食を食べ終わってテレビを見ようと座っている時「なんか胎動がないな・・」と思いました。その日の朝やお昼はいつもの様に元気に動いていました。しばらく様子を見ようと思っていました。旦那もお腹に耳をあてたり、触ったりしてくれましたが赤ちゃんは動いてくれません。旦那は用事があり出掛けてしまい、一人でとても不安でした。インターネットで胎動について調べていました。長時間感じないなら病院へ・・と書いてあるのを見つけました。夜9時になっても赤ちゃんは動いてくれません。気付いてから2時間以上経っていました。こんな時間に病院へ電話するのに私はためらっていました。何もなかったら申し訳ないし・・などと考えていました。「赤ちゃんどうしたの?大丈夫?」と撫で続けていました。もしかして・・・ものすごい不安が襲いました。病院へ電話をしたら「すぐに来て下さい」と言われ、先生の「大丈夫ですよ」の言葉を信じて一人で病院へ向かいました。

誰もいない静かで薄暗い病院。先生がエコーで私を診察しています。先生は「おかしいなぁ・・」と言いながらずっとエコーを動かしています。「実家は遠いですか?」と聞かれました。なんで?そんなこと聞くの??先生は「心臓動いてないね・・・」頭の中がパニックになりました。それってどういう事?赤ちゃん死んじゃったの??先生はやく赤ちゃんをたすけて!!診察台で私は号泣してました。看護婦さんがハンカチをもってきてくれました。そこの病院では受けられないからと近くの総合病院を紹介されました。病院について担当の先生を紹介されました。女性の先生でした。旦那も病院へ着いて二人でまたエコーを見ました。先生は泣いている私の様子をみながら、これからの処置についてゆっくりと説明してくれました。本当ならすぐに入院となるのですが今日の夜は帰ってもいいと言われました。最後に何か聞きたいことは?と聞かれて、「赤ちゃんは苦しかったですか?」と聞いたら先生は「う〜ん・・最後は苦しかったかもね・・」と・・・この時はただただ「赤ちゃんごめんね・・」と思っていました。もう深夜になっていましたが実母へ電話をしました。とても動揺しているようでした。その夜私はどう過ごしたのかあまり覚えていません。眠ったのか眠ってないのか・・ただ旦那が涙を我慢しているのは分かりました。私はまだ悪い夢の中のような気持ちだったと思います。

次の日病院へいきました。旦那も仕事を休んでくれました。お昼に私の母と父が遠方にもかかわらず病院へ来てくれました。午後から子宮口を広げる処置が始まりました。ラミナリアという海草で出来た小さな棒を入れていきます。だんだん本数を増やしていきます。とても痛かったです。歩くのもフラフラになりました。次の日陣痛促進剤を4時間おきに入れていきます。入院した時は個室でしたが陣痛室へ移されました。他の妊婦さんもいました。お昼に2回目の促進剤を入れてから陣痛らしき痛みが襲ってきます。間隔なんてありません。ずっと痛かったです。なかなか子宮口が広がらず、夜に4回目の促進剤を入れました。先生は早くて今晩、遅い場合は3日くらい続くと言っていました。3日もこんな痛みに耐えなくてはいけないのか・・陣痛室では他の妊婦さんも苦しそうにしています。でもあなた達はその痛みの先には喜びがある、私は泣かない赤ちゃんを同じ痛みに耐えて産まなければいけない・・そんな事を思っているとき分娩室から赤ちゃんの産声が聞こえてきました。他の妊婦さんの前では泣かないと決めていましたが、この時耐えられず涙が溢れました。声を殺して泣いている私の横で母親も泣いていました。母親は「あなたが赤ちゃんを頑張って産んであげなきゃ」と言いました。私しかいない・・赤ちゃんの為に出来ること、頑張らなきゃと思えるようになりました。旦那もずっと手を握っていてくれて、とても心強かったです。

その日の夜に娘は静かに産まれてきました。私の体を気遣って早めに出てきてくれたのでしょう・・1352g、39cmの小さな赤ちゃん。先生が「赤ちゃんに会うよね?かわいい赤ちゃんよ」と言ってくれました。私は赤ちゃんに会えると思っていなかったのでためらいましたが、抱いた瞬間本当に幸せな気持ちになりました。旦那にそっくりのかわいい女の子。陣痛や出産の痛みなんて忘れてしまうくらい本当に愛おしくて・・・私の母親も父親も初孫を抱いて幸せそうでした。旦那も目に涙をいっぱいためて娘を抱いていました。先生は赤ちゃんを病室へ連れていってもいいと言ってくれました。

赤ちゃんが産まれてきたら今回の原因がわかるかもしれないと言われていたのですが、私にも娘にも何の異常が見つかりませんでした。原因不明と言われました。何万人に一人だと・・旦那は納得できず病室で赤ちゃんを見ながら静かに泣いていました。胎盤を病理検査に出したのですがこちらも異常がありませんでした。

死産後私はPCの前に座りっぱなしでした。死産について調べました。世の中には私と同じように悲しい辛い経験をしている方達がたくさんいる事を知りました。赤ちゃんを授かり産まれてきてくれるのは本当に尊い事で、当たり前の事ではないと知りました。娘は八ヶ月と短い一生でしたが一生懸命生きてくれました。そして私達にたくさんの幸せを届けてくれたし、大切な事を教えてくれました。ありがとうの気持ちでいっぱいです。2ヶ月経ちますが娘の事を考えない日はありません。これからも毎日想うでしょう。ただ辛くて痛くて苦しい悲しみが、少しづつ穏やかで愛おしい悲しみに変わってきたように思います。いつも見守っていてくれている娘を想いながら、生きていきたいと思います。

(掲載日:2004/9/12)





Name: 智和ママ    ..bbtec.net
Date: 2005/04/12(火) 21:59
     削除 
Title: 妊娠18週・無脳症    
2004.8.24  5ヶ月目の検診に行きました。どのくらい大きくなっているのか?毎回頂くエコーの写真をアルバムに入れその日のコメントを添えていつの日か子供にプレゼントするのを夢見ていました。もともと肥満だったので妊娠中毒症やそのほかのリスクを思うと不安もありましたが、今できる限りの努力をしてリスクを最小限に出来る様にしていました。

まず胎児の心音を聴取され、「異常なし」と先生が母子手帳に判子を押してくれました。なんのきなく先生に手足はちゃんとありますか?と聞くと「ありますよ」と・・・でもいつもより長いエコーで先生が唇を軽く噛みながら画面を見ていたのが気になりました。画面の中の我が子は元気に動いていましたがお腹の厚い脂肪のせいか私にはどこが手なのか足なのかよく分かりませんでした。先生は「深いので(脂肪が厚いので)経膣でよく見てみましょう」と・・・経膣エコーをしながら先生のコメントはありませんでした。診察室によばれ「体重増加と高血圧があるのでもしも帝王切開になったらうちでは出来ないので大学病院を紹介します」といわれました。体重増加といってもこの一ヶ月1?程度の増加、血圧も120〜130代で尿蛋白もむくみもないのにおかしいな?と思いました。看護をしているものの産科に勤めたことはありませんが少しは知識があったのでもしかしたら胎児になにかあるのかと不安がよぎりました。そして最後に先生は「大学のいい機械で頭の形とかよく見てもらって!近いうちに行ってください」と・・・私は自分の中で自分が抱いた不安を否定するのがやっとでした。帝王切開になったときのためだけに大学病院を紹介してくれたのなら、次の検診は4週間後でいいはず、なのに近いうちにってどういうこと?私はその病院を出てすぐに大学病院へいきました。

若い先生が経腹エコーをしながら、「産院でなんていわれましたか?」と聞いたので言われたままを話し、「頭がないんですか?」と聞き返しました。「一部見えないんです・・・子宮の端っこにいるので見えないのかな・・・」と。中年の先輩ドクターを連れてきて再度エコーをしました。さらに経膣エコーをしてくれました。カーテンのむこうで中年の先生が若い先生に「診断は間違いないですね」と。見えないけど先生の数が増えていくのが分かりました。エコーの機械も替えて長い間見てくれてました。私は大体のことを悟り内診台の上で泣いてしまいました。看護師さんが「大丈夫?」と何度もきいてくれました。診察が終わると血液検査の結果が出たらお話します。といわれ採血をすませましたが、結果が出るまで一時間ほどかかるとのことで主人に電話をしました。主人の声を聞いたら必死に抑えていた不安が一気にあふれ声になりませんでした。とても一人で説明を聞けそうになく、午後から出勤だった主人には休みを取ってもらい一緒に説明を聞きました。

「残念ですが、無脳症です。」と告げられ涙が勝手にこぼれました。原因はほとんどが不明、糖尿病があるとそれが原因になるらしいのですが血液検査の結果、糖尿病ではなく先生は「たまたま・・・運が悪かったとしか・・・」と、子宮外に出たら生きていけないので人工中絶を勧められ入院の予約をしました。放心状態で院内をどうやって歩いて車に乗ったのか覚えていません。今日から5日後には入院をしなくてならなくなり、翌日には処置。その現実を受け止めることが出来ず何も考えられなくなりました。幸い主人の会社は配慮してくださり、私の処置が終わる日まで休みをくれました。その日からお腹の我が子と一緒にいられる限られた時間を大事にしようと、考え中だった名前を決めて、呼びかけたり、つわりの間食べたくて仕方なかったものは子のこの好きなものと思い食べさせるつもりで二人で食べたり・・・仕事の忙しかった私たちには親子三人の貴重な時間でした。

入院したその日にラミナリアを子宮口に挿入する処置をしました。初めての痛みに声を挙げて痛がってしまいました。その日の夜から主人も病院に泊まってくれて私のお腹をいとおしそうに何度も何度もなでてくれました。明日は子のこの誕生日だねと話しながら、明日が来なければいいと思いました。翌日朝9時、点滴をして陣痛室に行きましたが、子宮口が硬く開いていないので今日は出来ないとのことで病室に戻されました。あと一日この子と一緒にいられる・・・そう、うれしく思ってしまいました。お昼過ぎにまた、ラミナリアを挿入する処置をしました。昨日1本しか入れなかったラミナリアを4本入れました。子宮頸部か少し曲がっていたため真っ直ぐな棒状のラミナリアを挿入するのは困難だったようです。昨日以上の激痛で思わず「やめてください」と言ってしまいました。夜10時にまたラミナリアを挿入しなおすといわれ、怖くて怖くて・・・今度はどんな痛みなの?と不安でしたが、お腹の子は今も私の中で生きている、今夜も一緒にいられると思うと不安も飛んでいきました。夜10時の処置では7本のラミナリアを挿入しました。昼間ほどの痛みはなく処置は終了しましたが、それは順調に子宮口が開いていることを意味し、明日には確実に私の中からこの子は居なくなってしまう・・・複雑な気持ちでいっぱいでした。主人は昨日と同様にお腹をなでてくれました。

翌日9時、点滴を始めるとともに子宮内に陣痛誘発剤をいれ陣痛室で安静にしてました。2時間ほどたつと次第にお腹が痛くなり、おしっこがしたくてたまらなくなりましたが便座に座ってもおしっこが出せずお腹の中でコポッと子供が動いた感じがしました。分娩台にあがり、先生が診察をすると、先生もびっくりするほど子宮口が開いて羊膜もかなり緊張してきていたようで人工破膜しました。助産婦さんがまたお腹が痛くなってきたら生まれますよ・・・と。ところがなんだかスッキリしてしまいお腹も痛くならずまた陣痛室に戻りました。その後も陣痛は遠のいてしまい、3時間おきに陣痛誘発剤をいれましたが、夕方5時ごろようやく陣痛らしき痛みがきたものの弱い痛みのままで6時にまた陣痛誘発剤を入れました。夜8時頃にやっと痛みも徐々に強くなり、先生や助産婦さんも分娩の準備を始めていました。ああ・・・ついにこの時が来てしまった。涙が止まりません。私が陣痛室と分娩室を行ったり来たりする間、他の分娩室からは元気な産声が聞こえてきていたのです。私の子は産声を挙げることはない・・・おめでとうございますといわれることもない・・・自責のの念と主人や初孫を楽しみにしていた家族に申し訳ない気持ち、我が子に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。汚染防止のシーツをお尻の下に引くために腰を少し浮かした瞬間、私の膣を我が子がすり抜けていきました。ステンレスのお盆の上にドサッ落ちる音が聞こえ、とてもむなしかった。



Name: 智和ママ    ..bbtec.net
Date: 2005/04/12(火) 22:00
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Title: 妊娠18週・無脳症(2)    
臍帯で私と子供がつながっていることを皮膚で感じました。誰にもぶつけることの出来ない気持ちがあふれ、痛いという言葉で先生にぶつけてしまいました。我が子はすぐに隣の部屋に連れて行かれきれいにしてもらいました。助産婦さんにお会いになりますか?と聞かれましたが怖くてそのときは会えませんでした。今思えば我が子に失礼でした。主人に会ってもらいました。主人は私の手をにぎり「ありがとう」といってくれました。助産婦さんがとてもかわいいお顔ですよと言ってくれましたが、「よくいうよ!頭がないのに・・・」どうせなぐさみで言ってるんだとふてくされた気持ちでした。産後はトラブルもなく1時間安静の後病室に戻ることが出来ました。私は放心状態が続き、主人が霊安室へ我が子をおくって病室に戻りました。16cm・80gの小さな男の子でした。智和と命名しました。私の中に智和が居ないことがよくわかりました。体の状態が全然違いました。妊娠中はつらかった体のだるさや、胸焼けしている感じが嘘のようになくなっているのです。智和が居ない・・・誰か返して!そんな気持ちでいっぱいでした。助産婦さんが母子手帳に記入してくれて病室に届けてくれました。私が母子手帳の、妊娠時の状況などの記入欄に、書きうる限りのことを書いていたことをほめてくれました。「このページを記入する方はあまりいないんですよ、お腹の子をとても大事にしているのが分かります」と・・・その言葉が私を母親だと認めれくれたようでとても嬉かったです。母親らしいことを何もしてやれない、そう思っていたから本当に嬉しかった。分娩の一部始終を見てくれた助産婦さんが素敵なご夫婦ですねともいってくれました。

次の日私の母が来て一緒に智和に会いに行きました。恐る恐る覗き込むと助産婦さんが急遽こしらえてくれた帽子をかぶり、ガーゼの布団に寝かせてもらってる智和がチョコンと横たわっていました。その顔を見たらかわいくて、いとおしくて涙がまたあふれました、同時に嬉しかったです。主人にそっくりでした。まるで主人のミニチュアでした。こんなに小さいのにしっかり主人の子と分かる顔でした。今、智和は火葬をすませさらに小さな形で実家の仏壇に安置しています。姿はないけれど、確かに存在した私たちの子。いろんな幸せをもたらしてくれた智和に感謝しています。

(掲載日:2004/9/12)


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