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 2011年3月4日(金)
 みなかた 感謝の会&サポーター会議
 みなかたとは、可児市立南帷子(みなみかたびら)小学校の、この地域での愛称である。学区は若葉台(8〜9丁目を除く)愛岐ヶ丘、光陽台、長坂(5〜8丁目)古瀬・美濃田(東帷子)で、典型的な新興団地域の小学校だ。 
 
 そのみなかた小で午前中『感謝の会』と『みなかたサポーター会議』があった。感謝の会とは、日頃、登下校時の見守り等、地域で子どもたちがお世話になっている方や、卒業してゆく6年生に1〜5年生の子らが感謝の気持ちを表す会である。 
 
 私は平成15・16年と二年続けて、この学校のPTA会長を務めた。私にとっては大阪からこちらに移って来て、地域には何の足場もないときに初めて地域での活動の場を与えてもらった場所だ。 
 
 PTA会長になったきっかけは、平成14年秋にあった、市議会議員の補欠選挙に出たことだ。そのときは、現在岐阜県議の小原尚氏らとたたかい、次点に終わった。 
 
 可児に引っ越してきて4年目で、まったく知名度も何もなかった中で5000票ほどいただき、その8ヶ月後の本選挙で当選した。補欠選での落選は、ある意味覚悟していた。この辺りの経緯は拙著『脱サラ市会議員奮闘記』に詳しく書いた。(今は古本屋にしかない⇒手持の在庫はあるので希望者はご連絡いただければ差し上げます。) 
 
 市議の補欠選に落選した翌々日には、その当時のみなかた小のPTA会長が家まで来られて、ぜひ次年度のPTA会長を引き受けてほしいと懇願されたのだ。そのとき、下の娘は小学校4年生だった。 
 
 今でもそうだと思うが、他の役員はともかくPTA会長にはなり手がなくどこも苦労している。結果的に現役PTA会長のまま、平成15年7月の可児市議選に当選し、そのまま会長職は娘が中学を卒業するまで5年間続いた。 
 
 実はこの感謝の会は、平成16年度のPTA役員が初めて行った『地域でお世話になっている方々へのお礼の会』と学校行事の『6年生を送る会』が一緒になったものだ。 
 
 当時、児童の連れ去りや不審者事件が多発し、その年からはじまったみなかたサポーターや110番の家など、地域で子どもたちを見守っていただいている方にPTAとしてお礼の気持ちを表したかった。3月末のほとんどPTA活動は終わっている中でそれをやれたことが今でも思い出に残っている。 
 
当時のブログ2005年3.24↓ 
http://www.th21.jp/adiary/diary3.cgi?id=yamanet&action=view&year=2005&month=3&day=24#3_24 
 
 『感謝の会』では、1年生から6年生まで、それぞれに歌や寸劇などを披露してくれた。1年生は入学式の頃に比べて、ぐっと成長しているのが分る。6年生などは大人と変わらないような身長の子もいて目を見張った。 
 

『感謝の会』の後に開かれた、みなかたサポーター会議にも参加した。多くの方が子どもたちの登下校時の見守りに携わっている。私は、見守りには参加できていないが、わんぱく山など幅広い見地からみなかたのサポーターをずっと続けるつもりだ。 
 
 子どもたちは地域の宝であり、小学校は地域コミュニティを創りだす原点である。 
 
 

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